知人の日記を読んで、今の不謹慎圧力がものすごく強いらしいことを知った。何かたわいないことをツィッターで言うと、ものすごい数の不謹慎だぞ攻撃がくるらしい。こんな感じ↓
「不謹慎」の勢力はすごいものらしく、千単位、万単位のフォロアーさんがいる人は、ちょっと柔らかめのことをつぶやいただけで、すごい勢いの「不謹慎」コメントが返ってきたりするらしいから怖い。ぶっちゃけ、余震と同じぐらい怖い。
余震が怖い、停電が怖い、「不謹慎」という怪物が怖い
俺もツィッターをやってるけど、学生やニートが多いせいか、そういう感じはまったくない。なので、不謹慎ムーブメントがそこまで盛り上がってるとは知らなかった。
すごいよね。何か事件があると、ふだんは見えないもんが見える。やっぱ日本人の同調圧力ってすごいもんがあるんだな。
たしかなことはわからんけど、Aさんが深刻な事態に陥っているときに、Bさんがチャラチャラ遊んでたら「不謹慎だぞ!」と叱られる国って、でかい国としては日本くらいじゃないか。どうなの?
今回の地震で、大災害にもかかわらずみなが整然とした行動を取り、略奪等の行為が(それほど)起きてないことを諸外国から賞賛されているようだけど、その裏側の側面が不謹慎ムーブメントなんだろう。
ふと、不謹慎って(冥利が悪いみたいな)仏教用語なのかと思って、辞書で調べてみた。
[名][U]軽率, 無分別, 不謹慎;[C]軽率な言行.
とくに仏教用語っぽくはないね。また英訳できるのかも調べてみた。
ふきんしん【不謹慎】indiscretion不謹慎な (に) 〔無分別な〕imprudent(ly); indiscreet(ly) 不謹慎な行為imprudent behavior
ふきんしんな【不謹慎な】〔無分別な〕imprudent(ly); indiscreet(ly) 不謹慎な行為imprudent behavior
普通に英訳できるようなので、不謹慎という概念が日本人独自のものってわけでもないらしい。俺の中には不謹慎って概念が存在しない(真面目に考えるとたしかな意味をなさないと思う)けど、それは単に俺の辞書にないだけなのか。
俺は今でこそ麻雀ばっかやってるけど、20代前半のころは外国旅行にハマってた。当時は貧乏旅行をするほど楽しいことはなかった。何が面白かったのかというと、自分とは違いすぎる人に会うことだった。
たとえばインド人。バラナシという街に着いて、人力車に乗って「○○というホテルに行ってくれ」と言うと、「そこは洪水で沈んだ、別のホテルに連れてってやる」と言う。
他のホテルに引っ張ろうとするわけだが、そのとき、洪水で沈んだなんて嘘を思いつくだろうか。すげーな、その発想、よくそこまであからさまな嘘をつけるよな、と心の底から感心した。
もちろん、俺は「いいから沈んだホテルに行け」と言うわけだが、10分ほど走ると、沈んだはずのホテルは普通に営業してる。そこで悪びれるかというと、そんなことは全然ない。
俺の常識からすると、嘘をつくのは悪いことなので、それが多少なりとも態度に出てしまうわけだが、おそらく宗教的なバックボーンがあるのだろう。自分の生活のためには、あらゆる手段を取ることは許されて、そのさい嘘をつくのは構わないと。そうでなかったら、そこまで馬鹿馬鹿しい嘘なんてつけるはずもないし、バレたあとも堂々としていられるはずもない。同じ人間に見えるのに、皮をむいたら、まったく別のものが出てくるのだ。こうしてまったく違う世界観を持つ相手と出会う。
イスラム教徒と神はいるかという議論をするのも面白かった。英語で話すので、中学生レベルの理屈しか言えないのだが、それでも自分の中からは絶対に出てこない発想に出会う。
イランで神学者のオッサンと長距離バスで隣の席になった。そのとき、神はいるかどうかの議論をしたのだが、彼の言い分がすごかった。
「神はいる。なぜなら完璧なデザインがあるからだ。完璧なデザインとは(空を指差しながら)宇宙だ。神なくして、こんな完璧なデザインが存在するはずないだろう」
アメリカ人の宇宙飛行士が同じようなことを言ってるのを講演で聞いたことがある。「宇宙に飛び出して、その神秘を知れば知るほど、神の存在を確信するようになる」と。
この理屈が正しいか正しくないかというのはもはや意味がなくて、すでに前提の部分で発想が違いすぎる。欧米人と話してそこまでの発想の違いを感じたことはないけど、インド人とイスラム教徒については、考え方が根本的に違うんだと強烈に感じた。
たぶん、こういう経験をしても、普通だったら「ああ、彼らはそういう人たちなんですよ」で終わるんだろう。普通はね。でも俺は単純に考え方が違うというふうには割り切れない。たとえ短時間でも、心を開いた交流があったと思うせいか(インド人のリキシャ引きには単なる客だからそれは例外として)、切り捨てられないんだよな。
なので、今でもイスラム教徒との議論は俺の中では生きていて、文章を書くときにはいつも、この理屈は彼らに通用するだろうかって考える。たとえば麻雀で、いいアガリをすると次局は好調になるって理屈。どう見てもこれは仏教的な世界観なので、彼らにロジカルに説明し、納得させることはできないと思ってしまう。実際に打ってると、そんなことばっかだが、理屈としてはどう考えても成立しない。
今回の不謹慎ムーブメントもそう。Aさんが深刻な事態に陥っているときに、Bさんがチャラチャラ遊んでたら不謹慎だって理屈は、彼らを説得できない。そんなふうに思ってしまうんだよな。
俺にとってのロジカルの定義は、知的なイスラム教徒を説得できるか、になる。彼らに通用しなそうな理屈はロジカルではない。
イラン人の神学者のオッサンは、大学の先生かなんかだったみたいで、知的水準はこちら以上に高い。あいつらは馬鹿なんだろ、は通用しない。
俺の接したイスラム教徒は(英語を話す連中だから全体とは違うのだが)、知的にも、倫理的にも、高い連中ばっかだった。
エジプト人ってシャイな人が多くて、日本人と似てるなと思ったのだが、エジプト人の理系の大学教授から、こんな質問をされた。
「日本の若者は西洋化してきており、性的にも乱れてきているようだが、これから揺り戻しがきて、慎み深くなるだろうか?」と。
俺が「もっと乱れていくと思う」と返事したら、彼は悲しそうな顔をした。実際には倍乱れているから、俺の予想は当たったわけだが、「これからはブッディズムに回帰していくと思う」と答えたら、たぶん喜んだんだろう。
原宿の古着屋で買ったぼろいコートなんぞ着て、プーにしか見えない俺に対して、彼らは心を開いてつきあってくれて、俺が金を出そうとしても決して受け取らず、現地通貨ではけっこう高いものをごちそうしてくれて、途方もなく親切にしてくれた。そんな経験ばっかだった。身内より、どこの誰だか知らない人のほうが親切という俺の観念は、こういう経験からきている部分も大きい。
なので、「ああ、彼らはそういう人たちなんですよ」とは、あっさり割り切れないんだよな。
つーわけで、不謹慎ですよと言われても、俺は削除するだけですので( ̄w ̄)プッ
あえて言うならば、不謹慎というのは自分の行動が正しいかどうか考えるための言葉であって、他人の行動に対してとやかく言うための言葉だとは思いませんので。
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