母ちゃん(70歳)は去年の夏に入院し、秋に退院してホームに帰り、寝たきりとなった。完全介護の環境で、さらにいつも父ちゃんがついてる。万全だ。だが、父ちゃんは疲れがたまっているだろう。
父ちゃんに「たまには見舞いに行こうか?」と聞くと、「来ても話もできんから来なくていい」と言う。それが打って変わって「たまには来い」と電話が来た。
てなわけで、昨日は久しぶりに母ちゃんに付き添った。
退院時より明らかに弱った。足腰だけじゃなく指先まできかなくなり、寝たきりの人の顔になっている。
死について聞いてみた。楽に死ねるなら死にたいのかと。
すると、「この前、痙攣が止まらなくなって病院に運ばれちゃったけど、あんなことが何日も続いて死ぬんなら怖いわねえ。でも、楽に死ねるんなら、それが一番だわ」と言う。
そして「もうなーんも未練ないし」と。
俺は思わず泣いちまった。親の前で泣くなんて30年ぶりくらいだ。
同じことを父ちゃんに言っても「そんな悲しいこと言うなよ」と泣くらしい。父ちゃんは善人だし、根っからの情緒派なので、これはわかる。
でも、俺は母ちゃんほどじゃないにしても、ドライで個人主義者だ。母ちゃんが「サッサと死にたいわ」と言うような人だって、よくわかっている。
俺は悲しかったのか?
感情に名前はないから、それが悲しみなのかわからない。そもそも「悲しい」って感情はよくわからない。でも違う気がする。
俺が思ったのは「ああ、卒業なんだな」ってこと。多くの高齢者は歳とともに幼児化し、すごく感情的になって死を恐れる。でも、母ちゃんはサバサバした精神状態をまだ保っているため、「この人生はもう卒業でいいわ」と、あっさり思っているのだ。
なんといういさぎよさ。みんながみんな卒業したくないとジタバタするわけじゃないんだな。これは単純に性格からくるもんだと思う。
現状は母ちゃんにとって、卒業式直前のボケーっとした日みたいなもんなんだろう。体の自由はきかないし、しんどいばかりだから、そんな時間はなくて結構。さっさと卒業したいのだ。
自分で安楽死のスイッチを押せるなら、「じゃあこれでいいわ。さよなら」と言って、サクッと押すんじゃないか。そう、母ちゃんは「さよなら」の人なのだ。
われわれは別れのとき、「じゃあまた」などと別れを濁らせる。でも母ちゃんは人嫌いなので「また」はいらない。あっさり「さよなら」だ。
フランス語でも中国語でも「さよなら」は再会や再見で、そんなにあっさりとはしていない(英語のグッドバイは「良い通過」ってこと?)。それでも母ちゃんは、「一期一会でいいのよ」と、「さよなら」だけの人なのだ。
俺は今日「さよなら」と言われた気がしたんだな。いずれ来る日なんだから、むやみに先延ばしすればいいとは俺も思わない。それでも「これで卒業するわ、さよなら」と言われると、泣けてくる。
俺はそうしょっちゅうは泣かないのだが、今日は母ちゃんの前で泣き、そのあと一人で昼飯を食いながら泣き、帰りの電車内で泣き、家に帰ってからまた泣いた。たっぷり一年分は泣いた。
これが「悲しい」ってことなのかさっぱりわからんのだが(むかし失恋したときの胸に空洞ができたような感じとはまるで違う)、この文章を書きつつまたしても泣いてしまった。
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