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2007年10月21日 (日)

【麻雀】麻雀は創造的か?その2

前に書いた「麻雀は創造的か?」という文章に対して、ネット上でいくつか批判的な文章を目にした。それがなかなか適切な批判だと思われたので、もう一度この問題について書いてみよう。というのも、問題は「創造的」という言葉の意味にあるのだ。

まずは、ぼくが高校生のときに読んだ麻雀戦術書の一節を紹介する(要旨)。

 * * *

とある部長さんは奥さん一筋の真面目人間。仲間からなんと言われようと、決して浮気などしようとしなかった。そこで、仲間たちは彼に遊びを覚えさせようと一計を案じた。

あるとき、麻雀している最中、そのコチコチ部長はえらくツカなかった。そこで仲間は言った。その場にいる一番若くて美人の芸者はえらく福マンで、彼女のあそこに触っただけで、たいていの人はツクのだと。

ほれ、お福、部長さんがツカなくて困っとる。さわらせてあげんかね。

お福は言った。「いいわよ。義を見てせざるは勇なきなりね」

部長は最初はそんな話に取り合おうとはしなかった。しかしその日、彼はあまりにもツカなかった。続く不運。そして彼は、負け続けるうちに彼女のあそこに手を入れてしまったのだった。彼の名誉のために言っておかねばならない。決してスケベ心ではなく、あくまで麻雀のためだったと。こうして彼は初めて奥さん以外の女性のあそこを知ってしまったのである。しかも若くはちきれんばかりの女性の。

その日、部長さんは負けを取り返して帰った。前半の負けを後半になって取り戻したのだった。

この話にはツキに関して重要な教訓が含まれているのではなかろうか。つまるところ、ツキとは、まず本人の自信からなのである。

 * * *

どうだろう。この戦術論、実用性には欠けるけど、えらくわかりやすく面白い。五味康介という作家の『五味マージャン教室』からの引用だ。1966年のベストセラー。

ただし面白いとはいっても、ネット上で無料で読むものとしてはいいとしても、こういう文章が載った本を金を払って買う人がいるかといったら疑問符がつく。まあ99%は買わないに違いない。とある知人は、これは単なるオヤジコラムで、麻雀とは関係ないし、ちっとも面白くないと評した。そう、酒場談義チックなオヤジコラムなのだ。

古い麻雀の戦術書というのはこういうものが多かった。牌理の説明と人生論を織り交ぜて構成される。面白いといえば面白いし、下らないとといえば下らない。

今では麻雀の戦術書からこの種の人生論はなくなった。説得力を失ってしまったのだ。そして最近では、ひたすら麻雀のことばかり書かれるようになって、精神論はあるけれども、人生論と言えるほどのものは見られない。その結果、わかりやすさを失うことになった。

昔の戦術書の例としては、『すぐに役立つ麻雀マル秘戦術』(永田守弘)がドンピシャ。これ以上わかりやすい中級者向けの戦術書はないんじゃないか。最近の本とは比較にならない。官能作家が書いた麻雀本で、あまり下品ではなかったために現代でも生き残っている。名著として名高い『Aクラス麻雀』(阿佐田哲也)だって同じようなものだ。

この傾向をひとことでまとめるなら、われわれは「運勢」という曖昧模糊とした概念を信じられなくなることで、ライトユーザー向けのわかりやすさを失ってしまったのである。

同じような現象はメディアの多くの分野で起きている。とある出版社の偉い人から聞いた話だが、その会社では『孔子の人間学』みたいな本が毎年コツコツと売れ続けてきた。しかし、最近では本のレベルが上がってしまい、この本は売れなくなった。実証性が低い本は、その分野の愛好家から見向きもされなくなった。

韓国ドラマの医療ものなど観てみると、実際の手術シーンの映像を使っていて、なかなかグロイけれども迫力はすごい(日本のTVドラマはここまで気合が入っていない。だから韓国ドラマのように輸出するまでには至らない)。

明智光秀が織田信長を裏切って殺した「本能寺の変」という日本史上の事件がある。それから400年あまり、この問題はさんざん論じられてきた。主君と家臣の関係はどうあるべきか? 家臣は主君の命令ならどんな無茶な要求にも黙って従うべきなのか? などなど。そして近年では光秀にはどんなバックがいたのかという陰謀論が盛んになっている。だが、現場となった本能寺は発掘調査されていなかった。最近になって発掘され、本能寺は小さな寺どころではなくそれなりの城郭だったことがわかってきた。400年間も議論しながら、この事件についての実証的な検証が不足していた。そんなことが書かれているのが最近の本だ。かつての主君と家臣のあり方論など、もう読まれはしない。

すなわち、メディアの多くの分野で実証性とドキュメント性がどんどん高くなっており、かつての曖昧なものでは通用しなくなっている。どんどんレベルが上がっているのだ。

何をもって「創造的」とみなすか、そこにその人の価値観が表れる。麻雀だって将棋だって戦術は飛躍的に進歩している。だが、サイレントマジョリティにはそこまでの興味はない。ぼくは麻雀マニアであると同時に出版人でもあるので、麻雀に関してもこのテーマは売れるかどうかを常に考える。麻雀の戦術はどんどん進歩しながらも、どんどん多数の人を引きつけない方向に向かっているのだ。

96年に将棋の羽生善治7冠フィーバーが起きたとき、メディアの取材を引き付けたけれども、将棋人口は増えなかったという。それ以降も、戦術の進歩は止まるところがない。だが、世の多数派は、羽生マジックがなぜマジックなのかを解説されたいとは思わないのだ。かつての坂田三吉とか升田幸三の人間ドラマは多くの人を引き付けたというのに。

『ボナンザvs勝負脳』の最後で、ボナンザ開発者の保木さんは、科学者として、多くの人が科学的な現象に興味を持たないのが悲しいと嘆いている。そこに現代の断絶が口を開けている。物事をアルキメデスの原理で考える人たちと、細木数子の原理で考える人たちとの。

もうおわかりだと思う。ネット上でぼくの文章に批判的なことを書いた人たちというのは、アルキメデスの原理の世界に住む人たちだ。凸の講演会で知ったことだが、ゲーム情報学の世界にはゲーム人間とコンピュータ人間の2種類がいる。後者がずっと多い。彼らの感性は一般にイメージされる理系の人たちといっていい。

本として売れるか売れないかというのは、出版人としてのぼくの愚痴にすぎない。だが、麻雀がプレイ時に創造性を発揮するキャンバスではなくなったという変化は、非常に大きいんじゃないか。戦術の進歩に創造性を感じる人にとっては、今こそ盛り上がっているのかもしれないけど、そんな人は日本に10人くらいしかいないのだ。

よりニュートラルな表現にするならば、麻雀は人間ドラマの舞台や感性を表現する場であることから離れ、純粋に1ゲームとしての麻雀になったのだ。

「運勢」という雲間から出て、一気に視界が開けたことは、われわれにとってプラスなのかマイナスなのか。ぼく個人にとってはプラスであるように思うのだが、多くの人を引きつけなくなったことは、1出版人として困ったものだ。

金融工学のキモはリスク処理にある。単に読みで勝つことを目指すなら、投資も博打にすぎないが、統計的処理によって勝つ方法論を築くことで、投資は工学になった(というのが彼らの理屈で、まだあやしさは残るもののノーベル賞までもらっている)。こんな時代だから、麻雀も、(金を賭けるか賭けないかという意味ではなく)運まかせの博打から工学になるのは当たり前かなと思う。

※麻雀の競技選手として生きてる人たちは、今だって麻雀は創造性を発揮するキャンバスだと思っているはず。そうでなかったら、時間や金を使って競技選手なんてやってられません。でも、そういう人たちもまた少数派だということで。

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コメント

どもども♪通りすがりです。

特に麻雀好きという訳でもないのですが、デジタル麻雀こそ最強!と豪語する友人の話を聞いていて『麻雀って創造性がないな』と思い『麻雀・創造性』と検索してみたらヒットしました(笑)

私はクラシック音楽が好きなのですが、『現代音楽』というジャンルは、工学的?とは言えないけれど、似非工学とは言える(笑)アラン・ソーカルが怒りそうなポストモダン風味な科学を装った高度な音楽なるものがありますが、『聴衆を無視した音楽』『そっぽを向かれた音楽』なんて揶揄されます。

徳川家の血筋で立教大学生物学教授の松平頼暁氏の音楽を挙げておきますか。。。

Morphogenesis II (1992年作曲)
https://www.youtube.com/watch?v=GA_XsNMJ_aA

大衆にそっぽ向かれますわな(笑)

金融工学どころか近年では生理学・生物学・神経科学まで持ち出して市場のランダム性と人間について考えるようになっていますが、基礎科学・科学的事実をある程度網羅していないと『主張が分からん』ので、そっぽを向かれるか、分かっているようで分かっていないか、説明概念は立派だが制御モデルができないか(笑)ある種の人には面白い世界ですが、麻雀も音楽も金融市場も『ドラマ』では無くなってしまいましたね。

どうも私が麻雀を真剣にやってみようと思えないのは、仕事でリアリズムを追求しているのに、遊びでもやりたくないよ(笑)ってところ。遊びは『ランダム性に騙されたい』ってところでしょうか?。私達が『意味』だと思っているものの大半は、実際には『意味ありげ』なだけで、現代音楽なんか壁のしみが人の顔に見えるとか、そんなレベルの音楽だと思いますが(笑)『自分から主体的に何かを創造しようと思わない限り、何も与えてくれない』のが科学ないし構造主義かなと。

パチンコ打ちの面白いコメントがあったのですよね。『期待値・期待値、君たちは期待値って言うけれど、そんなことを考えたくないからパチンコやってるのだし、全員が期待値を考えていたら、パチンコ屋から人がいなくなって、期待値・期待値って言うプロの君たちが取れる期待値も無くなるのだからほっといてくれ!!』なかなか面白いでしょ?(笑)

私は自分の仕事に創造性を求めてきたし、勤め人としては出来た部分も多かったですが、経営者である今、創造性無いですね(笑)ガウディーだったかな?出所は怪しいですが『創造はない。あるのは発見だけだ』なんて言ったらしいですね。近年では、美も科学されるようになり、フェラーリを見ている男性の脳では、女性を見るときに使っている神経細胞が発火するのだとか。つまりポルシェのライトは乳ってことですかね?(笑)こんな風に科学が進歩することによって、目的を達する方法は飛躍的に進歩していますが、科学という土台無しには理解できないものなので、『物語』と『説明概念&制御モデル』という2つの世界の見方は、分裂状態ですね。

人はより考えなくなると思いますね。科学という土台を持たぬものは『考えても意味がない』と薄々気づくでしょうから動物化していくでしょうし、それを支えてくれる素晴らしい道具があります。道具を作っている側は科学を応用・演繹しているだけで、そもそも最近、物理学者なんて日本にいるのか?ってくらい物理学研究者と技術者ばっかりですよね。

『気持ちよくなりたい=ゲーム』という目的を果たす制御モデルは、やっぱりオカルトなのですよね(科学的!!w)『勝つ』『稼ぐ』ことを目的にゲームする。それは良いのですが、では『金が稼げれば良いのなら、ギャンブルよりずっと稼げるものがありますよね?』って話になってしまう。では金に興味を失う程の資産家の息子に産まれた友人はどうか?っていうと、暇つぶしに大学で研究していたりする(笑)しかも全然役立ちそうにない。

結局ね?。ある種の人たちは『賢すぎる』のだと思いますね(笑)これは米国の有名な経営者でありギャンブラーが言ってたことで『ゲームを超えてしまう』と表現していましたが、本来のゲームとは、オカルトにまみれて気持ちよくなるものなのに、科学があまりにも素晴らしい進歩をしたおかげで、本来のゲームを超えられるようになってしまったってことでしょうね(笑)保険も銀行も工学的アプローチが無かった頃は、散々、倒産していましたからね(笑)

これだけ娯楽が増えると、麻雀で感情表現ってのも、ローテクな感じがしますけれどね(笑)私の周囲に本格的なギャンブラーっていませんが、確率概念を自然科学・社会科学双方に渡って理解している人でも、実際にギャンブル場に行くと『言ってることとやってることが違う』のですね。鳩山由紀夫みたいなもので(笑)自分を気持ちよくさせる方法と、リアリズムは違うが、やっぱり気持ちよくなりたいってことでしょうね(笑)

あれだけ確率について語っていたのに、ゲームをはじめて数回運で負けたぐらいでどうして感情的になっちゃってるの?(笑)なーんて思っても口には出しませんが、どうやらこの点も、神経科学のソマティックマーカー仮説で説明できちゃうみたいですね。

プレーヤーとして優れている人ってスポーツマンのような反射的な能力に優れていることが多いですが、武器を作る人は、自分が作った武器をうまく操作できなくても構わないって部分もありますからね。音楽でいえばショパンなんか優れたピアニストだったから、ピアノという楽器に沿った音楽になっているけれど、ラヴェルなんかピアニストとしては全く通用しない程度しか弾けなかった人だから、拷問みたいな曲ばかりですね。科学も似た部分があって、難度の高い説明概念を制御モデルに落としこむことは難しい。そこで『デザイン』が尊ばれるようになる。いかに抽象的なことを動物脳に分からせるか?といったところですかね。

人工知能ディープラーニングは、本当にヤバイっす。世の中の95%の頭脳なんて不要になるのかもって勢いですね。いやーこれからどうなるのか?。どうにもならんですね(笑)私は『道具階級社会』って勝手に呼んでいるのですが、道具を操作する人・作る人・作る人に金を出す人、まあそんな風に、道具を中心に社会が階層化していると見るのなら、ますます顕著に階層化されるでしょうね。昔の知識人が哲学や文学に深い造詣があって深い表現をしても、あんまり現実は動かない。道具は全然深くないけれど巧みに現実を制御してしまう。でも良い道具ってのは、やっぱり無駄に私達に働きかけるデザインを持っているものですね。

ブログ、とても面白いですね。ちょくちょく読ませてもらいます。ありがとうございました。

長文失礼しました。

投稿: とおりすがり | 2015年9月 7日 (月) 01時53分

>とおりすがりさん

長文コメントありがとうございます。
ぼくは最近、ヒップホップみたいなダンスを趣味にしてます。それを始めてからわかったんですけど、勝ち負けがないジャンルって自由だなーと。
ダンス、絵画、小説、音楽みたいなジャンル。
現代音楽の工学性について書かれてますけど、大江光とかポップスとか、理屈は関係ないジャンルのほうが音楽全体の中でははるかにでかいと思います。

勝ち負けが絡むジャンルは、すでに統計分析からくる科学から逃れられない。しかし、勝ち負けがないジャンルではまだまだ自由だし、人類の半分を占める女性はそっちにしか興味を持ってない。
そんなふうに思ってます。

投稿: 福地 | 2015年9月 7日 (月) 06時41分

たぶん福地先生が『麻雀の最適解を追求し、かつ実行しようとしている』から、そう感じるのかもしれませんね。

きつつきは、木の穴から餌を取る為に、同じ木の穴を7回つつき、毛虫がいなければ次の木に移動しますが、数学で計算すると約7回が最適行動になります。動物や人間にも、行為と結果が一致しない領域に関しては期待行動が『生理的』に組み込まれていますが、生理的に組み込まれているものと、合理的に求められる行動が不一致になると、知性・執行、双方で相当訓練しないと出来ませんからね。

『現代音楽の工学性について書かれてますけど、大江光とかポップスとか、理屈は関係ないジャンルのほうが音楽全体の中でははるかにでかい』

はい(笑)福地先生が期待値を中心とした麻雀を推奨しても、女性が興味を示さないと感じられるように、現代作曲家も高度な技法を駆使して作曲しても、世の中が興味を示さないってボヤクのと変わらないですね(笑)結局、どの世界も進歩しすぎてしまい、敷居が高くなってしまっていると思いますね。現代音楽を聴く人たちは『楽しんでいる』訳ではないと思います。楽しむのなら大江光とかポップスになるのは分かります。『勝つ>楽しむ』麻雀と似ていますね。

まあ女性は『実感したい生き物』ですから(笑)実感し難い期待値なんぞには興味を持たないってのも分からなくはないですけれどね。男性は『勝ちたい生き物』ですから、実感できなくても優れた武器なら武装しようって話ですね。

生物学的に見るのなら男性は『俺様の精子で子孫を大量に作るのだ!』女性は『優れた精子によってわが子を産み育てるのだ』って類人猿的な要素は根強くありますね。出世すると精子の量が増量し降格処分を下された日には精子が死滅していることが分かっていますし、女性は『中身』よりも『権力』が好きなのでは?。もちろん自分が権力を握ることではないですが。。。

男性社会では貧乏でも抽象的な思考を駆使できる人は尊敬されますよね。女性社会ではありえないでしょ?。結局、武器が欲しい戦う男性と、戦利品が欲しい女性(笑)ま、興味の矛先が違うのは、そんなところじゃないですかね?。

投稿: 続き♪ | 2015年9月 7日 (月) 14時06分

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