【麻雀】麻雀は創造的か?その2
前に書いた「麻雀は創造的か?」という文章に対して、ネット上でいくつか批判的な文章を目にした。それがなかなか適切な批判だと思われたので、もう一度この問題について書いてみよう。というのも、問題は「創造的」という言葉の意味にあるのだ。
まずは、ぼくが高校生のときに読んだ麻雀戦術書の一節を紹介する(要旨)。
* * *
とある部長さんは奥さん一筋の真面目人間。仲間からなんと言われようと、決して浮気などしようとしなかった。そこで、仲間たちは彼に遊びを覚えさせようと一計を案じた。
あるとき、麻雀している最中、そのコチコチ部長はえらくツカなかった。そこで仲間は言った。その場にいる一番若くて美人の芸者はえらく福マンで、彼女のあそこに触っただけで、たいていの人はツクのだと。
ほれ、お福、部長さんがツカなくて困っとる。さわらせてあげんかね。
お福は言った。「いいわよ。義を見てせざるは勇なきなりね」
部長は最初はそんな話に取り合おうとはしなかった。しかしその日、彼はあまりにもツカなかった。続く不運。そして彼は、負け続けるうちに彼女のあそこに手を入れてしまったのだった。彼の名誉のために言っておかねばならない。決してスケベ心ではなく、あくまで麻雀のためだったと。こうして彼は初めて奥さん以外の女性のあそこを知ってしまったのである。しかも若くはちきれんばかりの女性の。
その日、部長さんは負けを取り返して帰った。前半の負けを後半になって取り戻したのだった。
この話にはツキに関して重要な教訓が含まれているのではなかろうか。つまるところ、ツキとは、まず本人の自信からなのである。
* * *
どうだろう。この戦術論、実用性には欠けるけど、えらくわかりやすく面白い。五味康介という作家の『五味マージャン教室』からの引用だ。1966年のベストセラー。
ただし面白いとはいっても、ネット上で無料で読むものとしてはいいとしても、こういう文章が載った本を金を払って買う人がいるかといったら疑問符がつく。まあ99%は買わないに違いない。とある知人は、これは単なるオヤジコラムで、麻雀とは関係ないし、ちっとも面白くないと評した。そう、酒場談義チックなオヤジコラムなのだ。
古い麻雀の戦術書というのはこういうものが多かった。牌理の説明と人生論を織り交ぜて構成される。面白いといえば面白いし、下らないとといえば下らない。
今では麻雀の戦術書からこの種の人生論はなくなった。説得力を失ってしまったのだ。そして最近では、ひたすら麻雀のことばかり書かれるようになって、精神論はあるけれども、人生論と言えるほどのものは見られない。その結果、わかりやすさを失うことになった。
昔の戦術書の例としては、『すぐに役立つ麻雀マル秘戦術』(永田守弘)がドンピシャ。これ以上わかりやすい中級者向けの戦術書はないんじゃないか。最近の本とは比較にならない。官能作家が書いた麻雀本で、あまり下品ではなかったために現代でも生き残っている。名著として名高い『Aクラス麻雀』(阿佐田哲也)だって同じようなものだ。
この傾向をひとことでまとめるなら、われわれは「運勢」という曖昧模糊とした概念を信じられなくなることで、ライトユーザー向けのわかりやすさを失ってしまったのである。
同じような現象はメディアの多くの分野で起きている。とある出版社の偉い人から聞いた話だが、その会社では『孔子の人間学』みたいな本が毎年コツコツと売れ続けてきた。しかし、最近では本のレベルが上がってしまい、この本は売れなくなった。実証性が低い本は、その分野の愛好家から見向きもされなくなった。
韓国ドラマの医療ものなど観てみると、実際の手術シーンの映像を使っていて、なかなかグロイけれども迫力はすごい(日本のTVドラマはここまで気合が入っていない。だから韓国ドラマのように輸出するまでには至らない)。
明智光秀が織田信長を裏切って殺した「本能寺の変」という日本史上の事件がある。それから400年あまり、この問題はさんざん論じられてきた。主君と家臣の関係はどうあるべきか? 家臣は主君の命令ならどんな無茶な要求にも黙って従うべきなのか? などなど。そして近年では光秀にはどんなバックがいたのかという陰謀論が盛んになっている。だが、現場となった本能寺は発掘調査されていなかった。最近になって発掘され、本能寺は小さな寺どころではなくそれなりの城郭だったことがわかってきた。400年間も議論しながら、この事件についての実証的な検証が不足していた。そんなことが書かれているのが最近の本だ。かつての主君と家臣のあり方論など、もう読まれはしない。
すなわち、メディアの多くの分野で実証性とドキュメント性がどんどん高くなっており、かつての曖昧なものでは通用しなくなっている。どんどんレベルが上がっているのだ。
何をもって「創造的」とみなすか、そこにその人の価値観が表れる。麻雀だって将棋だって戦術は飛躍的に進歩している。だが、サイレントマジョリティにはそこまでの興味はない。ぼくは麻雀マニアであると同時に出版人でもあるので、麻雀に関してもこのテーマは売れるかどうかを常に考える。麻雀の戦術はどんどん進歩しながらも、どんどん多数の人を引きつけない方向に向かっているのだ。
96年に将棋の羽生善治7冠フィーバーが起きたとき、メディアの取材を引き付けたけれども、将棋人口は増えなかったという。それ以降も、戦術の進歩は止まるところがない。だが、世の多数派は、羽生マジックがなぜマジックなのかを解説されたいとは思わないのだ。かつての坂田三吉とか升田幸三の人間ドラマは多くの人を引き付けたというのに。
『ボナンザvs勝負脳』の最後で、ボナンザ開発者の保木さんは、科学者として、多くの人が科学的な現象に興味を持たないのが悲しいと嘆いている。そこに現代の断絶が口を開けている。物事をアルキメデスの原理で考える人たちと、細木数子の原理で考える人たちとの。
もうおわかりだと思う。ネット上でぼくの文章に批判的なことを書いた人たちというのは、アルキメデスの原理の世界に住む人たちだ。凸の講演会で知ったことだが、ゲーム情報学の世界にはゲーム人間とコンピュータ人間の2種類がいる。後者がずっと多い。彼らの感性は一般にイメージされる理系の人たちといっていい。
本として売れるか売れないかというのは、出版人としてのぼくの愚痴にすぎない。だが、麻雀がプレイ時に創造性を発揮するキャンバスではなくなったという変化は、非常に大きいんじゃないか。戦術の進歩に創造性を感じる人にとっては、今こそ盛り上がっているのかもしれないけど、そんな人は日本に10人くらいしかいないのだ。
よりニュートラルな表現にするならば、麻雀は人間ドラマの舞台や感性を表現する場であることから離れ、純粋に1ゲームとしての麻雀になったのだ。
「運勢」という雲間から出て、一気に視界が開けたことは、われわれにとってプラスなのかマイナスなのか。ぼく個人にとってはプラスであるように思うのだが、多くの人を引きつけなくなったことは、1出版人として困ったものだ。
金融工学のキモはリスク処理にある。単に読みで勝つことを目指すなら、投資も博打にすぎないが、統計的処理によって勝つ方法論を築くことで、投資は工学になった(というのが彼らの理屈で、まだあやしさは残るもののノーベル賞までもらっている)。こんな時代だから、麻雀も、(金を賭けるか賭けないかという意味ではなく)運まかせの博打から工学になるのは当たり前かなと思う。
※麻雀の競技選手として生きてる人たちは、今だって麻雀は創造性を発揮するキャンバスだと思っているはず。そうでなかったら、時間や金を使って競技選手なんてやってられません。でも、そういう人たちもまた少数派だということで。
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