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2007年2月14日 (水)

【麻雀】4.不純な偶然は許されない時代

またしばらくサボってしまいました。
これは昨年、同人誌『麻雀の未来』に書いた「麻雀は博打かゲームか」から。第4(最終)節です。


麻雀に期待値という概念を持ち込んだのは麻雀ライターの山崎一夫氏だという。これは本人の自己申告であり、それが本当かどうか確かめる術はないが、おそらく昭和の終わり頃まで、麻雀では期待値という概念は使われていなかったのだろう。この事実は、ひとつの疑問を解き明かしてくれる。腕が結果を左右する種目に、なぜ金を賭けられるのかという疑問である。

われわれはまったくの偶然になら金を賭けられる。だが、囲碁や将棋のような実力勝負には金を賭けられない。人によって強弱がある種目に金を賭けるのは公平ではないからだ。ということはつまり、昭和の終わり頃まで麻雀はサイコロ博打に近い感覚でプレイされていたのだろう。勝ちも負けも単なる運だと思われていた。そんな状態が現在でも惰性で続いている。

一九九〇年頃からアメリカで急速に発達した金融工学は、リスク処理を最大のテーマとしている。デリバティブ(金融派生商品)では、株式、債券、先物などを購入するときに、レバレッジをきかせる方法や、リスクを回避する方法などが複雑多岐に組み合わせられる。ランダム性をいかに扱うか、それが経済でも非常に重要になってきている。

もはや現代において、偶然は単なる偶然ではない。こまかく数値化され、純粋な偶然と不純物の混ざった偶然とに選り分けられている。言うまでもなく、「麻雀なんて運じゃん」というときの運とは、不純物の混ざった偶然である。確率的に微妙な差異が、ゲーム内に広く散らばっている。

昨今あらゆる分野で、かつては単なる偶然でしかなかったものに数学的な光を当て、その分布を緻密に描き出そうとする試みがなされている。麻雀も例外ではない。ネット系雀士が始めたその種の統計的アプローチは、これからさらに大きな潮流となっていくだろう。

そんな時代に麻雀が博打たり得るか。答えは言うまでもない。今でも雀荘で金が賭けられるのは、麻雀の面白みをより深く味わうためのスパイスにすぎないのだ。腕も運もともに必要なボードゲームが数多く現れている現在、その仲間である麻雀が向かう方向は明らかだろう。麻雀が博打でありゲームでもある現状は、前時代の残滓にすぎない。

麻雀から博打の臭いを消そうという運動は、時間が経てば自然と解決するし、時間が経たない限り解決しない。麻雀は「昭和の博打」であり、社会から昭和的なるものが消えるに従って、博打の側面を失っていく。

それでも、ネットやゲーセンでのバーチャル麻雀の人気を見る限り、これからも麻雀が人気を失うことはないだろう。いや、その人気は増すかもしれない。麻雀はゲームとして不動の地位を保ち、そこから博打臭が消えたときには、ゲームとしてまた新しい顔を見せるのではないか。

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