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2007年2月の4件の投稿

2007年2月20日 (火)

【麻雀】1.問題提起

昨年、同人誌『麻雀の未来』に書いた「麻雀は博打かゲームか」から。第1節です。


麻雀は博打かゲームか、という問いがある。この問いは簡単なようで簡単ではない。

原則論からすれば、金を賭ければ博打だし、金を賭けなかったらゲームである。そんなことは当たり前だ。
たとえば、ゴルフは博打かスポーツかという問いや、パチンコは博打かレジャーかという問いは誰も発しない。それこそ当たり前だからであり、問いを発する意味がない。ゴルフは金を賭けたとしても基本的にはスポーツであり、パチンコは自宅で一人楽しむ人がいたとしても基本的には博打である。

それでは麻雀の場合は、なぜわかりきっていないのか。ひとつには、麻雀が社会的な立場として博打とゲームの境界に位置しているからだろう。金を賭けるリアル麻雀と、金を賭けないバーチャル麻雀が並存する状況になっている。

そんな事情はあるけれども、それだけではないのではないか。もっと深い理由があるように思われる。博打かゲームかという問いが、麻雀のゲーム構造に深く関わっているのではないか。すなわち、麻雀は博打としてもゲーム的な博打であり、ゲームとしても博打的なゲームなのである。

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2007年2月16日 (金)

【麻雀】2.賭博史における出自

昨年、同人誌『麻雀の未来』に書いた「麻雀は博打かゲームか」から。第2節です。


賭博史の本を読むと、ゲームは博打から発していることがわかる。ゲームの母は博打であり、博打の母は占いである。

余暇にゲームを楽しむ生活スタイルは、かなり豊かにならないと成り立たない。そんな生活が庶民でも可能になったのは、二〇世紀になり、工業の時代に入ってからだ。競技としてのゲームが広く普及したのは、日本では高度成長期以降と言っていいだろう。

古代に神事から博打が生まれた。中世には、凝った博打は貴族のものであり、さいころ博打などの単純な博打は庶民のものだった。それが近世になって、囲碁や将棋のような博打まで庶民に広がった。そして二〇世紀になり、金を賭けないゲームという概念が博打から派生したのである。そんな図式を描くことができよう。

麻雀がカードから牌になる形で誕生したのは十九世紀なかばのことであり、世界的なブームになったのは一九二〇年代のこと。それは人類が広く余暇を楽しむようになる時代の直前だった。世界ブームは貴族階級におけるものであり、第二次大戦後は余暇を持った中産階級が広く登場し、麻雀をプレイするようになった。こうして麻雀は大衆化し、しだいにゲームとしての顔も持ち始めたのだ。

すなわち、麻雀はゲームという概念が生まれる直前に成立した最後の伝統博打なのである。時代の変わり目に生まれたことが、麻雀の性格に大きな影響を及ぼしている。

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2007年2月15日 (木)

【麻雀】3.ゲーム性における特徴

昨年、同人誌『麻雀の未来』に書いた「麻雀は博打かゲームか」から。第3節です。


博打として考えたときに、麻雀には特異な点がいろいろある。腕が必要だが、その一方で運も大きい。自己コントロール感が強く、勝ったときの達成感と負けたときの敗北感はどちらも大きい。時間がかかりすぎて、勝ち負けを決める効率がきわめて悪い。

普通、博打というものは、金の張りの大小も勝負の大きな要素である。極端なことをいうなら、ポーカーでは一勝九九敗でも勝つことができる。博打とはそういうものだという感覚を、われわれは持っているのではないか。

だが、麻雀は一勝九九敗では勝つことができない。半荘という単位を考えたとき、イーブン以上の成績でないと負けてしまう。金の動きの有限性――ここに博打として見たときの日本麻雀の特徴がある。

その一方で、点棒の動きは無限に近い。千点の手を何度上がっても、役満一発で引っくり返されてしまったりする。点棒の段階ではきわめて博打的だ。点棒の動きの無限性――ここにプレイ中は博打的な気分に浸ってしまう理由がある。

つまり、点棒は博打的に動くが、金は博打的に動かない。それが麻雀なのである。だから、金を賭けなくとも、疑似ギャンブルとしてゲームが成り立つのだ。

賭博とは、歓喜と絶望が背中合わせのものであり、そこには狂気が潜んでいる。だが、麻雀は博打として見たときに、「狂気の博打」どころか、「勤勉の博打」である。一勝九九敗では勝つことができず、地道に勝利を積み重ねるしかない。一攫千金はあり得ず、金の魅力によって新規プレイヤーを獲得することはできないのだ。さらには、個々の技術においても、細かい要素の寄せ集めである。勤勉を愛する人でないと麻雀を心底好きにはならないのでないか。

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2007年2月14日 (水)

【麻雀】4.不純な偶然は許されない時代

またしばらくサボってしまいました。
これは昨年、同人誌『麻雀の未来』に書いた「麻雀は博打かゲームか」から。第4(最終)節です。


麻雀に期待値という概念を持ち込んだのは麻雀ライターの山崎一夫氏だという。これは本人の自己申告であり、それが本当かどうか確かめる術はないが、おそらく昭和の終わり頃まで、麻雀では期待値という概念は使われていなかったのだろう。この事実は、ひとつの疑問を解き明かしてくれる。腕が結果を左右する種目に、なぜ金を賭けられるのかという疑問である。

われわれはまったくの偶然になら金を賭けられる。だが、囲碁や将棋のような実力勝負には金を賭けられない。人によって強弱がある種目に金を賭けるのは公平ではないからだ。ということはつまり、昭和の終わり頃まで麻雀はサイコロ博打に近い感覚でプレイされていたのだろう。勝ちも負けも単なる運だと思われていた。そんな状態が現在でも惰性で続いている。

一九九〇年頃からアメリカで急速に発達した金融工学は、リスク処理を最大のテーマとしている。デリバティブ(金融派生商品)では、株式、債券、先物などを購入するときに、レバレッジをきかせる方法や、リスクを回避する方法などが複雑多岐に組み合わせられる。ランダム性をいかに扱うか、それが経済でも非常に重要になってきている。

もはや現代において、偶然は単なる偶然ではない。こまかく数値化され、純粋な偶然と不純物の混ざった偶然とに選り分けられている。言うまでもなく、「麻雀なんて運じゃん」というときの運とは、不純物の混ざった偶然である。確率的に微妙な差異が、ゲーム内に広く散らばっている。

昨今あらゆる分野で、かつては単なる偶然でしかなかったものに数学的な光を当て、その分布を緻密に描き出そうとする試みがなされている。麻雀も例外ではない。ネット系雀士が始めたその種の統計的アプローチは、これからさらに大きな潮流となっていくだろう。

そんな時代に麻雀が博打たり得るか。答えは言うまでもない。今でも雀荘で金が賭けられるのは、麻雀の面白みをより深く味わうためのスパイスにすぎないのだ。腕も運もともに必要なボードゲームが数多く現れている現在、その仲間である麻雀が向かう方向は明らかだろう。麻雀が博打でありゲームでもある現状は、前時代の残滓にすぎない。

麻雀から博打の臭いを消そうという運動は、時間が経てば自然と解決するし、時間が経たない限り解決しない。麻雀は「昭和の博打」であり、社会から昭和的なるものが消えるに従って、博打の側面を失っていく。

それでも、ネットやゲーセンでのバーチャル麻雀の人気を見る限り、これからも麻雀が人気を失うことはないだろう。いや、その人気は増すかもしれない。麻雀はゲームとして不動の地位を保ち、そこから博打臭が消えたときには、ゲームとしてまた新しい顔を見せるのではないか。

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