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2006年11月の33件の投稿

2006年11月29日 (水)

【教育】教育格差6

とことんしつこく「日刊ゲンダイ」の連載から。


2002年からいわゆる「ゆとり教育」が始まり、学習内容が3割削減された。厳密にはゆとり教育路線は20年前から始まっているのだが、今回の削減は大きかった。3割も減らしながら、全体の枠組みはあまり変えなかったから、個々の単元が弱体化された。たとえば、分数の掛け算を習った後に、それが身につくように練習する時間がなくなってしまった。結果、家庭でのフォローや塾に通うか否かの差が大きくなった。

昔は、塾に通っていない子にも優秀な子はそれなりに存在した。それが今では非通塾で優秀な子は激減してしまっている。勉強の基本は学校だという原則が崩れ、すでに補助学習が必須になりつつあるのだ。公立中学の三者面談でも、「塾はなんと言ってた?」という質問が当たり前になった。

大都市部では以前から中学受験が盛んだったが、それが02年以降は低年齢化した。

「最近うちに来る子は、小学校受験をなんらかの形で経験しており、幼児期からスタートしているのが特徴ですね。中学受験がスタートという子は非常に少ない」

都内の中学受験塾の講師はそう語る。教育熱心な家庭では、義務教育が始まる以前から公教育任せにせず、自前で我が子の教育プランを立てるようになりつつある。

その一方で、完全なる放任家庭も増えている。子供が居間でテレビゲームばかりしていてじゃまだからと自分の部屋を与えたら、近所の子の溜まり場になって、ますますゲーム三昧。そんな話を聞いた。この家庭は家族で旅行に行くような出費はいとわない。しかし、子供をしつけたり、勉強させたりする気はないのである。親の子育てに対する姿勢の差は以前から存在した。だが、その差が顕在化する時期が早くなっている。小学校の低学年のうちから二極化するようになってきている。

こども未来財団がそんな現状を反映した調査結果を発表している。高収入夫婦ほど子供の教育費を負担に感じているというのである。子育てを負担に感じる理由のうち、養育費(生活費+教育費)を一番に感じている割合は、年収200万円以下でわずか4.9%。それが年収1000万円以上の家庭では、20.3%にもなっている。まさに逆転現象だ。つまり、収入の高い家庭ほど子供の教育に意欲を持ち、その結果、費用負担を重く感じているのである。

最近は、高学歴は高学歴同士、低学歴は低学歴同士で結婚するようになっているから、意欲でも経済力でも家庭の力が二極化している。それが子供の教育にストレートに出てくるのだ。(つづく)

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2006年11月28日 (火)

【教育】教育の目的は?

財政破綻した北海道夕張市のことが、このブログに書かれている。
http://blog.goo.ne.jp/mikogamitenzen/e/199a4b79ab100e4c2c1b4c3b8ea549b1
著者はそこに日本の明日を見る。財政破綻し公共サービスを切り下げる自治体を、余裕のある者は出て行く。納税能力のある者ほど出て行ってしまうのだ。まさに少子化の進む日本の明日だろう。まったく同感する。

国家にとって教育の目的とは、次世代の納税者を育てることだ。納税者が出て行く国は干上がってしまう。それには納税者を大事にすることだ。

今の日本は次世代の納税者を大事にしているだろうか?

どの年代も、少し上を見て生きている。10代の者は20代を、20代の者は30代を、30代の者は40代を、40代の者は50代を…(そこから先は経験ないからわからない。60代以上は“今”しか見てない気がする)。

少し上の世代が幸せそうか。あるいは30歳上(親世代)が幸せそうか。みな、それを見て自分の人生について考える。

今の日本は、納税者の中核と将来の納税者である10代、20代、30代、40代、50代を大事にしているだろうか?

日本の教育は私費負担が莫大だから、親が金を出してくれないと10代は明日が開けない。金を出すと発言権が増大するわけで、親から「美大なんか行っても食えないから、そんなことに出す金はない!」と言われたら、好きなこともできないのだ。国が金を出してくれないからそうなる。

20代、30代は雇用を切り崩されている。20代のワーキングプア率は劇的に高く、20代後半でも4人に1人。国民全体の雇用が切り崩されたというよりも、若者が狙い打ちされた。

40代、50代の子育て世代は余裕があるだろうか。住宅費と教育費の負担を抱え、沈む寸前という人も多いだろう。もっとも自殺者が多いのは50代の男性だ。その一方で、シングルの人たちは余裕を持っていても満足している気配はない。

会社等の組織の権限は50~60代が握り、資産の大半は60~80代が保有している。個人金融資産1400兆円のうち、74%を60歳以上が持ち、なんと95%を50歳以上が持っている。この傾向は土地も含めるとさらに広がる。

そのため政治は50代以上の方向を向いている。今のシステムでは駄目だと誰もがわかっていながら、再設計は着手されない。

教育の目的は次世代の納税者を育てることだ。それでは今の日本は、将来いっぱい税金を納めてくれそうな若者を育てているだろうか?

今の愛国心教育は“元気のよいバカ”を対象に考えられている。どの国でも貧しい若者は民族主義的になる。だが、真に愛国心が必要なのは、多額の納税をする優秀な若者なのである。

スポーツでいうなら野球の松坂だ。彼の契約金60億円は日本に来る金だが、この先の個人年棒は日本で納税されるだろうか。

マーケットが国際化しているスポーツはいい。科学技術人材はどうなのか? 明日の日本を支える人材をキープしようというビジョンが圧倒的に不足しているのではないか。

富裕層の目は海外に向かっており、アメリカやスイスのボーディングスクールが注目される。その内容はというと、国内の学校ではまるで太刀打ちできないのだ。

『レイコ@チョート校―アメリカ東部名門プレップスクールの16歳』(集英社新書)を読んでみると、灘や開成など国内名門校とは比較にならない教育内容がよくわかる。しょせん日本の学校は受験マシーンを育てているだけ。“真の教育を追求する”という理念すらない。

すでに高額納税者予備軍は、子どものうちから海外に流出している。富裕層は以前より東大を重視せず、海外を見ている。そこに愛国心はない。

過疎に悩む地方には、子どもにその地方を好きになってもらうため、一丸となって努力している所もある。以前、小学生の作文コンクールの入選作を読んでいたら、伊勢えびづくしの給食について書かれていた。そうやって全力を傾け、子どもたちに地域を好きになってもらおうとしているのだ。これこそ明日の日本の姿ではないか。

今の教育で必要なことは、10代や20代に金とサービスを回すことだ。しかも彼らが真に望むようなやり方で。目先のことではなく、彼らが将来に希望を持てるようなやり方で。それが根本ではないか。金を回そうとしない教育改革に、抜本的なものなどあるのだろうか?

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2006年11月27日 (月)

【教育】教育格差5

ますますしつこく「日刊ゲンダイ」の連載から。


1990年代の後半、日本の子供たちの学力が低下しているのではないかという論争があった。いくつかの調査でわかったのは、たしかにテスト学力は全体的に低下していたが、それ以上に学力格差が拡大していたことだった。勉強する子としない子の差が開いていたのだ。

また、親の学歴との相関性も高く、通塾・非通塾の差も大きかった。単純化してしまうなら、親が高学歴で塾に通っている子の学力はあまり低下していなかったが、親がで通塾していない子は学力が大幅に低下していたのだ。

学力の差というと、以前は勉強が難しくなり始める小学校高学年から開き始めると思われていた。だが、それ以上に幼児期からの生活習慣の差が大きいことがわかってきた。百ます計算で有名になった蔭山英男氏は、計算練習などは表面的なことにすぎず、早寝、早起き、朝食などの生活習慣が大事だと繰り返し述べている。この半年ほどで続々と創刊された子育て雑誌の『プレジデントファミリー』『アエラキッズ』『日経キッズプラス』などは、「頭のいい子の生活習慣術」といったテーマを繰り返し特集している。

しかし、こういった情報に接して子供の生活習慣に気を配るのは、そもそもそんな注意は必要ない家庭なのだ。本当に意識改革が必要な家庭に情報は届いていない。生活保護も自己破産も早期離婚も増えている現状では、子供のことを考える余裕のない親が増えている。借金取りに追われている親が、子供に早寝早起きしろと落ち着いて注意できるだろうか。コンビニ、スーパー、ファミレスなど24時間営業の店舗が増えているため、そこで働く親の生活時間も多様化しており、深夜に幼児を連れて居酒屋で食事するのが一家だんらんという家庭が増えている。子供に生活習慣を身に付けさせるどころか、幼児期から親が家にいないケースも多い。

つまるところ、子供に生活習慣を守らせ、そこそこまともな食事を食べさせられるのは、生活にゆとりのある家庭だけになっている。学力格差の底には生活格差があり、その根底には経済格差が横たわっているのだ。貧困家庭に育った者は、自身も非常に高い確率で貧困に陥る。そのメカニズムを明らかにしようと、アメリカでは社会学の1分野として貧困研究が盛んになっている。その結果わかったのは、もっとも影響が大きいのは幼児期ということだった。勉強に入るはるか前から、厳然とした生活格差が形成されているのである。(つづく)

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2006年11月26日 (日)

【つぶ】「城」

一度くらい予備校講師をやってみようと思い、短期間の講習のバイトに申し込む。

当日、駅で父親と会い、なごやかに見送ったあと、財布を持ってないことに気づく。カバンに金を発見して、なんとか電車に乗れる。

その日、他にもいろんな予定があったのだが、まるっきり間に合わない。全部ブッチして、予備校に向かう。

偵察のため、他の授業に潜り込んでみると完全に学級崩壊。女性講師のしゃべりなんて誰も聞きゃしねー。

そこで、テキストを忘れたことに気づく。あわてて事務室に借りにいく。

バイト気分だったため予習してない。やべー。授業なんてできねーよ! 「日本史・地理」という合体科目だったため、関係ない話をしてごまかそうと思う。

テキストを見ると、やるべき内容は日本の近代史。んじゃ「右翼と左翼」ってテーマで、何も知らない高校生に「この対立を理解すれば、あらゆる問題が違った角度から理解できるよーになるから一緒に考えてみよー」と提案することにする。

それから教室に向かうが、ちっとも近づかない。同じ校舎の中だったはずが、いつの間にか離れた校舎になっている。あわてて一生懸命向かっているのに、いつの間にか駅前にいる。もう時間はとっくに過ぎている。もう絶望的だ。

と、そこで目が覚めた。

うう、こんな夢を見てる場合じゃねーぜ!!!

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2006年11月25日 (土)

【麻雀】麻雀の売れた本

ぼくがいま作ってる本↓

『超入門・科学する麻雀』(洋泉社)とつげき東北[著]・福地誠[編]
http://www.interq.or.jp/snake/totugeki/nyuumonkagakusuru.htm

これまで麻雀の本には数多く関わってきたけど、内容は一番いいと思う。自画自賛ですけどね。
つーか、よくしてぇ!

ぼくの知る限り、この10年間で一番売れた麻雀の本はこれ。
『麻雀いっぱつ読本』(宝島社)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4796693092/

その前の10年間で一番売れた麻雀の本はこれ。
『バカヅキハリケーン』(竹書房)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4884750438/sr=11-1/qid=1164461969/

『科学する麻雀』(講談社現代新書)もかなり売れてるけど、この2冊にはまだ部数・売上総額とも及んでない。
今回はこの系譜に挑戦でき…ないかなあ。まだ発売まで20日あるっていうのに、著者がHPで1日告知しただけで、アマゾンランキング500位だもんな。可能性はあるかも…甘い?

あ!
単純に部数でいったら、この10年間ではたぶんこれだわ。
『アカギ悪魔の戦術』
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4812452821/

また自慢話ですんません。
ただ、麻雀の本というには、ちょっとアレだな(笑)。

正確な数字は知らないけど、桜井章一さんの人生相談系の本もかなり売れてるはず。麻雀の本じゃないけど(笑)。

にしても、内容がどうってことより、まず部数を考えちゃうのが業界人の発想ですね。われながら。

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【教育】教育格差4

しつこく「日刊ゲンダイ」の連載から。


日本の義務教育の分厚さは世界一。そんな神話がかつてあった。日本は世界に冠たる教育大国だと、自他ともに認めていたのである。

今はどうなのかというと、教員の給与では相変わらずトップ水準だが、全体としてはそうも言えない。いろんな国に住んだことがある人の意見を聞くと、医療と教育で日本は住みにくい国だという。とくにひどいのは教育の私費負担で、オランダやスペインに住む日本人は、絶対に日本で子育てをしたくないと口をそろえる。そう、子供の教育にカネがかかるという点では、日本は世界最高どころか、最悪レベルなのである。

OECD諸国28カ国を比較したデータを見てみると、日本の教育のお寒い現状がはっきり浮かび上がってくる。大学など高等教育への公財政支出は韓国と並んで最下位。幼稚園など小学校前教育への公財政支出も下から5番目。OECD28カ国中で義務教育に関しては中くらいの水準にあるが、その前と後の時期に関しては、ほぼ最低水準といって過言ではない。

さらに塾代なども考えると、子供に教育を受けさせたいと願う親にとって、日本と韓国、アメリカの3カ国が最底辺グループをなしている。教育にカネがかかりすぎて、庶民には手の届かないものになりつつあるのだ。

こんな状況に対して、国際的に厳しい視線が注がれている。高等教育の無償化を掲げるユニセフから、高等教育の私費負担を下げるよう何度も勧告されながら、逆に学費は上がる一方だ。日本は1979年に国際人権規約を批准しているが、そのとき、無償教育に向けて努力するという項目は留保してしまった。同じように留保をしているのは、日本以外にはマダガスカルとルワンダのみ。アメリカは社会権自体を批准していないから、こんなところでも日本はアメリカの後追いだ。

文部科学省の出している「文部科学白書」には、高校から大学の7年間だけで教育費に1人当たり平均1000万円かかっていると記されている。これが特別に教育熱心なわけでもない家庭の平均的な教育費負担なのだ。

さらに教育熱心な家庭や、地方在住で自宅から大学に通えない家庭、また私立大学の理系に子供を通わせている家庭では、これ以上の負担がかかっている。大学終了後に、大学院やロースクールなどに通わせようとしたら、さらに数百万円かかる。子供が複数だったらその人数分かかることになる。1人当たり1000万円を出す余裕のない家庭では、どんなに優秀な子供でも大学には行けないのが、いまの日本なのである。 (つづく)

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2006年11月24日 (金)

【麻雀】麻雀新撰組とその時代3

◆3◆第一期名人戦の悲劇

こうして第一期名人戦は火花散る闘いとなった。当時、違うルールを採用し、反目しあっていた三団体から各一名ずつ、そして麻雀新撰組から二名が出場した。

まず麻雀の神様と呼ばれ、人気絶頂の作家、阿佐田哲也。終戦直後から修羅場をくぐり、かつて関東七番目の男と異名を取った打ち手である。

麻雀プロ第一号、小島武夫。十八歳からケン師相手に修行を積み、二十八歳で上京するや東京牌王のタイトルを獲得する。当時、向かうところ敵なしと評判だった。

日本麻雀連盟からは鈴木栄喜六段。一橋大学在学中から不敗の戦歴を誇り、当時は三菱商事部次長の職にあったサラリーマン雀士。最年長の五十三歳だった。

日本麻雀連盟からは会長の村石利夫八段。数多くの麻雀戦術書によって広く名を知られ、その勝負強さから麻雀界の林海峰と呼ばれていた。

そして日本牌棋院からは青山敬七段。天野大三会長の秘蔵っ子で、棋院内では不敗の記録を持ち、三十三歳にしてただ一人七段位を許されていた。

この五名で半荘十回戦を打ち、抜け番があるから各人は八回ずつ打つシステムだった。日本中のファンから注目を浴びた一戦は、人気を反映するかのように熱戦となった。最終十回戦を迎え、誌面には「四強一線に並ぶ」という見出しが躍った。阿佐田、小島、鈴木、青山の四名が、わずかの差で並んでいた。最終戦を制した者が名人位を得る。
 
このとき小島が優勝していたら、その後の麻雀プロの立場は違っていたのだろうか。「麻雀プロ」を立ち上げた阿佐田にとって、最終戦の結果は希望を潰すに等しいものだった。東三局、日本牌棋院の青山七段が六連荘、一気に抜け出したのである。第一期名人位には青山敬七段が輝いた。

その一年後に青山は引退してしまう。すぐに引退してしまうのなら、なぜ出場してきたのか。阿佐田ならずとも、そんな文句をいいたくなる。タイトルを取ったのなら、その役回りを通じて、見せる麻雀の確立に尽力してほしい。そんな願いも、彼らアマチュアにとっては考え方の相違としかいえなかった。こうして「魅せる麻雀」は「魅せない麻雀」に敗北してしまったのである。

昭和四十年代の麻雀ブームは、阿佐田哲也という人気作家と、小島武夫という人気プレイヤーを生み出した。麻雀新撰組は常に話題の中心にあった。しかしプロレス派は大舞台で真剣勝負派に勝てなかった。いかに正しい理屈を声高に語ろうとも、負けてしまった者の主張は説得力を持ちえない。昭和四十八年に麻雀新撰組が解散されたときにも、麻雀プロは麻雀でプロレスを行うという方針が定着していたとはいえなかった。

現在、テレビの麻雀番組は、芸能人を中心に行われている。やはり阿佐田の方針は正しかったということだろう。しかし、それでは麻雀は勝てないことに難しさがあった。幕末の新撰組は時代に逆行する生き方を押し通して散ったが、昭和の新撰組も麻雀+ショーイズムという矛盾した足し算の前に散ったのだった。しかしどちらも歴史に足跡を大きく残した。

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2006年11月23日 (木)

【麻雀】麻雀新撰組とその時代2

◆2◆麻雀新撰組、結成さる

こうして麻雀界のヒーロー的な存在となった阿佐田は、次にプロデューサーとしての手腕を発揮する。麻雀新撰組を作ったのである。隊長になったのは阿佐田で、隊員は小島武夫と古川凱章。阿佐田は新撰組を作った動機をこんなふうに書いている。

――麻雀新撰組を造ったそもそもの動機は、新しい麻雀プロを、産みだそうということであった。それまでのプロのイメージは、一方の極に常習賭博者である麻雀ゴロが居り、一方の極に純粋競技団体の有段者が居るという感じだった。そのどちらでもない、見せる麻雀を打てる連中、麻雀を読ませることのできる連中を育てようとしたのである。

小島は「麻雀でプロレスをやらないか」という誘い文句に心を揺さぶられたと述懐している。そう、麻雀でプロレスをやるところに阿佐田の意図はあった。いうまでもなくプロレスはショーであり、エンターテインメントである。ガチンコの真剣勝負とは違うのだ。

後に隊員に加わった三輪洋平はこう語っている。

「新撰組は阿佐田さんにとって小説だったのよ。あのころ、阿佐田さんは小説の材料が底をついて苦しかったからねぇ。でも、生きた人間を使って実社会を舞台に小説を書くなんて、すごい発想だよね」

なんとしても阿佐田の名前がほしかった出版社サイドは、ネタが枯渇しつつあった阿佐田に今度は麻雀の打ち手として活躍することを求めていた。それなら毎週登場することも可能だろう。そんな要請に応えるかたちで阿佐田も新しい打ち手の世界を作ってみようとした。それは新聞に囲碁欄や将棋欄があるように、麻雀の実戦も読ませることができないかという新たな市場への挑戦でもあった。

麻雀のプロレスをやるとなったら、実際のプロレス同様に相手が必要になる。対局がなかったら、打ち手の魅力は表現しようもない。その最初の舞台となったのは名人戦だった。麻雀新撰組の結成も第一期名人戦も、ともに昭和四十五年のことである。

阿佐田の考えでは、金を取って麻雀を見せるためには、打ち手も書き手もすべてがエンターテインメントである必要がある。だからこそプロレスになる。だがアマチュアの人たちは、もともと他の職業を持って、趣味として麻雀を打っている人たちである。同じように趣味で麻雀を打っている人でも、俳優やスポーツ選手とは違って、メディア側の意図に敏感な人たちではない。そういった人たちと打つ麻雀は、プロレスにはならないのではないか。

そんな阿佐田の危惧は捨て置かれた。名人戦を主催する『週刊大衆』は、打ち筋のコンセプトよりも、新旧勢力の対決というわかりやすい構図を選んだ。

麻雀新撰組が登場してから、それ以前からあった麻雀の戦術書は売れ行きががっくりと落ちていた。そんな利害の対立もあって、麻雀新撰組に対して旧勢力側は苦々しく思っていた。それなら麻雀で決着をつけるのが面白いのではないかというわけだ。

既存の麻雀団体は彼らなりのやり方で麻雀を愛しており、普及活動を行っていた。エンターテインメントに徹するという阿佐田の方針は、彼らからすると麻雀を商売ネタにしているとしか見えなかった。彼らはプロという呼称を嫌い、アマチュアにこだわった。阿佐田は新しい麻雀プロ像を作ろうとしたが、当時プロといえば雀ゴロを意味した。麻雀プロという名称を使うなら今後いっさい協力はできないと、雀荘の業界団体から申し入れられたこともあったのだ。

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【麻雀】麻雀新撰組とその時代1

たまには、麻雀の過去原など載せてみよう。


◆1◆阿佐田哲也の登場

昭和四十年代は麻雀が光り輝いた時期だった。麻雀を打つ人間が飛躍的に増えて、雀荘が次々と開店した。麻雀の本がベストセラーとなり、テレビ番組「11PM」では麻雀コーナーが作られた。

その渦中にはずっと一人の作家がいた。彼がいなかったら、麻雀ブームも底の浅いものにすぎなかっただろうし、いや、それどころか、ろくに盛り上がらなかった可能性もありそうだ。その作家とは、いうまでもなく阿佐田哲也だ。阿佐田は一作家にとどまらず、天才的なプロデューサーとしてブームを多方面から盛り上げたのだ。それでは、まずは阿佐田哲也が人気絶頂に至るまでを見ていこう。

ギャンブルは不況時に流行るという。また社会不安があるときにも流行るともいう。昭和四十年といえば高度成長のまっただなかだが、その一方でベトナム戦争が泥沼化していた時期でもあり、ギャンブルが流行する気運は高まっていた。

昭和四十一年に、五味康祐による『五味マージャン教室』がベストセラーになる。麻雀モノが売れることに目をつけた出版社により、麻雀関係の出版物がぽつぽつと増え始めていた。この年から双葉社は阿佐田を大車輪のように使い始める。

四十一年、『週刊大衆』新年特大号、マージャン講座を連載開始(無記名)、四十五回で終了。
四十二年、マージャン講座・麻雀コンサルタント(無記名)、一年間連載。
四十三年、サラリーマン麻雀実戦訓(ペンネーム七対子)、一年間連載(単行本では改題して「Aクラス麻雀」)。

次々と麻雀モノを書いていた阿佐田だが、このときはまだ麻雀界における立場を着々と築いていたというわけではなかった。無記名であったり、七対子というペンネームであった事実からもわかる通り、むしろ売文稼業に近い感覚だったろう。当時の風潮として、また阿佐田自身の意識としても、戦術モノなどは物書きの端くれが生活費を稼ぐ手段にすぎなかった。

そんな事情はまもなく一変する。同じく『週刊大衆』で、複数作家による麻雀小説のシリーズで穴が開き、ピンチヒッターとして出番が回ってきた。今度は小説という物書きとしては一軍の舞台である。

ここで阿佐田が書いた「天和の職人」は大人気を博した。いきなりホームランを打ったのだ。以後、「捕鯨船の男」「ブー大九郎」と書かれた読み切り短編は、のきなみ大好評となる。そして一カ月ほどの準備期間をへて、不滅の金字塔『麻雀放浪記』の連載が始まるのである。

それまで小説家としては芽の出ない存在と見られていた阿佐田だが、こと麻雀専門の小説家としては、最初から松井級のホームランバッターだった。当初は青春編だけの予定だった『麻雀放浪記』は、あまりの人気に双葉社が連載の終了を認めず、風雲編、激闘編、番外編と書き続けられた。売れるとなったら出版社はあの手この手でこき使おうとする。

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2006年11月22日 (水)

【つぶ】三国志

娘1号(中3)は暇なとき、ぼくの部屋に漫画をあさりに来る。

そして昨日ついに漫画『三国志』(横山光輝・全60巻)を読み始めさせることに成功した。

20巻あたりまで読んだはず。

「面白い?」「まー、それなりに」って感じだった。

ついに娘の教育に勝利した!

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2006年11月21日 (火)

【教育】増刷!

Photo

『教育格差絶望社会』の3刷が決まったと、いま担当者から連絡を受けた。2000部。 よっしゃよっしゃ!

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【教育】教育格差3

「日刊ゲンダイ」の連載から。


「えー、○○君って××大学なの? すごーい、頭いいんだねー」

こんな無邪気な発言を聞くと、○○君は頑張って激しい偏差値レースを勝ち抜いたことを連想させる。そのとき、レースに参加できなかった者が多数いることは、視野に入っていない。

多くのスポーツや芸術の世界では幼児期からの英才教育が不可欠なように、勉強もまた家庭が偏差値レースへの参加費を払ってくれた場合のみ、有名大学への挑戦が可能になる。

偏差値レースへの参加費は1000万円。「文部科学白書」によると、高校から大学の7年間に、子供1人にかかる学費は平均1000万円である。しかし、これには「予選の参加費」は含まれていない。有名大学に行くような子供は、高校に入る前から塾に通い、場合によっては中学受験までして、さらに多額の教育投資を受けている。そのため、1000万円を払う前の段階で決着はついてしまう。以前は高校受験まで通塾しない子にも優秀な生徒はいたが、最近では公教育の地盤沈下により、めっきり減ってしまった。

なぜ1000万円もの教育費が必要になってしまうのか。大学の学費が途方もなく上がり続けてきたからだ。過去10数年間の学費の推移を見てみると、それは一目瞭然である。1973年の石油ショックの年まではインフレ率も高く、親の所得も上がり続けていたから、学費値上げに追いつくこともできた。その年を境に日本は低成長時代に入ったが、学費は高度成長が終わっていないかのごとく、いやそれ以上の勢いで上がり続けた。

国立大学の授業料で見てみよう。73年には年間3万6000円。それが83年には21万6000円となり、93年には41万2000円、そして03年には52万1000円となった。実に14・5倍である。私立大学も同様の勢いで上がり続け、さらに高い。もちろん入学金も上がり続けている。国立大学ですら初年度納入金が80万円を超えてしまった。

昔は自活しながら学費を稼いでいる苦学生もいたが、今では聞かなくなってしまった。働いていても最低限の生活さえできないワーキングプアが話題になる昨今、学費まで稼ぎ出すことはまったく不可能になってしまったのだ。

自分の親が将来1000万円の参加費を出してくれるかどうか。子供はそれを敏感に感じ取るから、期待が持てない家庭の子は早い段階から勉強の道をあきらめてしまう。こうしてセックス三昧の中学生が巷に吐き出されていくのだ。(つづく)

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2006年11月20日 (月)

【教育】役立つ物理

もうずいぶん前のこと。毎月、闘牌シーンを作っていた麻雀漫画で、今月は斬られ役として、理系の専門家がその専門を活かして麻雀が強いという設定を作ってほしいと言われた。

そういう場合、確率系か心理学系と相場は決まってた。でもどちらもありきたりだなあと思えた。

そこで、ぼくが考えたのは流体力学だった。

麻雀ってのは毎局バラバラから始めて、組み合わせが一定の極に達したら、またバラバラにして次の局になる。それを果てしなく繰り返すゲームだ。

これは、136枚を水槽の中にいれ、揺さぶっているようなものだと考えた。136個の粒がどのような分散傾向となり、どのように凝縮していくかのゲームだってこと。現実には無理あるけど、いいのだ漫画だから。

ぼくは流体力学なんてひとかけらもわからないから、本屋に行き流体力学の教科書を買ってきて読んでみた…けど、やはりひとかけらもわからなかった。それでも適当に専門用語を使って、必殺技のようなものを作った。

そのキャラは2カ月出て主人公に負けたけど、あまり受けなかった。まあイマイチの出来だった。今では誰も覚えてないマイナー漫画だ。

んで、何が言いたいのかっていうと、麻雀というゲームをひとつの閉じた系と考えるこの発想は、高校のとき物理をやってなかったら思いつかなかっただろうなってこと。

てなわけで物理って役立つ。高校生諸君は生物など選ばず、もっと物理を選択しましょう。履修率10%ってのは低すぎますよ。

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2006年11月19日 (日)

【教育】学校という鍋

教育に関心のある人は、最近の情勢を心配してるんじゃないか。

最近は教育ネタのニュースが多い。その多くで学校の責任が問われている。子どもの自殺なんて本当に学校の責任なのかあやしいもんだけど、校長も現場の教師もますます立場がない。

このままでは教師のなり手が減ってしまい、人材としての質が下がってしまうんじゃないか。そんな心配を多くの人がしてると思う。

日本の教師の質は諸外国にくらべて決して悪くない。予算や時間など与えられた条件の中で、かなり頑張っている。

教育の良し悪しはかなりのほどを教師によっている。制度は流れを良くするためのもので、根本は教師なのだ。

これ↓は、そんな状況を心配してるって話が満載の対談本。

『欲ばり過ぎるニッポンの教育』(講談社現代新書)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061498665/

改革すればするほど、日本の教育は悪くなってるんじゃないかと苅谷剛彦さんはいう。本当にいま改革する必要があるのかと疑問を投げかける。世界最高とされるフィンランドとの比較などが豊富に出てきて、そちらの陰の面も取り上げ、じつは日本の公教育も決して悪いもんじゃないという。

日本は高校進学率が97%にもなってしまったため、それが6割くらいだったら社会問題になってたものが、みな学校の問題とされてしまった。いろんな問題が、すべて担任や校長の責任だとされてしまう現状には無理があるのだが、それでは、その問題を家庭に差し戻せばいいかというと、それもまた解決には結びつきそうもない。

日本の評価方法は相対主義だ。たとえば受験では、定員以内に入れれば合格になる。フィンランドでは絶対主義なので、一定水準に達しなければならない。それが高校生の段階から日本の大学など比較にならない厳しさだ。

これまで日本の教育はやさしすぎた。「15の春を泣かせるな」といって、みんなが高校に行けるようにし、大学に進みたい子が増えたら、どんどん大学を増やした。

最近は学力低下が問題になっているが、もし高卒資格認定試験のようなものを作り、それに合格しない者は大学に入れないという制度にして、しかもその基準を厳しくしたとしよう。高校で学ぶすべての科目を課し、すべて6割以上できないと大学に出願する資格もないとする。生徒がいなくなってしまう大学からも、子どもが大学に入れなくなってしまう親からも、大きな不満の声が上がるだろう。

やさしいのがいいのか、厳しいのがいいのか。みんなが学校という鍋に、あらゆる矛盾した望みをぶち込んでいるのが現状だ。

いま、小学校で英語を必修化しようって方向に来てるけれども、英語を入れるってことは、代わりの何かが抜け落ちることになる。そういった全体のバランスを考えようっていうのが、いつもの苅谷さんのスタンス。ホント小学校の英語必修化なんて時間も予算も無駄としかいいようがない。

地すべり的な不安の渦に飲み込まれている日本の教育は、やはり日本社会の鏡なのだろう。今の日本が大きな不安を抱えているのだ。

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2006年11月18日 (土)

【教育】教育格差2

「日刊ゲンダイ」の連載から。


日本では全国どこにいても一定水準の教育を受けられるはずだ。そんなふうに考えていないだろうか。しかし、これは20世紀までの「常識」で、今ではまったく通用しなくなってしまった。ちょうど21世紀になった頃から、公教育もひそかに全国一律という看板を下ろし、地域による格差、学校による格差を認めるようになった。その結果、今では恐ろしいほどの地域格差が生まれてしまった。

東京都を例に取ってみると、23区は2つに分けることができる。古いエリアである城東・城北地区と新たに発展した城西・城南地区だ。端的に言ってしまうなら、この2つは貧しいエリアと豊かなエリアなのである。2002年の1人当たり給与所得では、上から港区、千代田区、渋谷区、文京区、目黒区、中央区、世田谷区、新宿区、杉並区という順番になった。この9区が平均以上で、残り14区は平均以下だ。一方、下位7区を下から順に挙げると、足立区、葛飾区、荒川区、墨田区、江戸川区、北区、板橋区となった。東北方向にある区と南西方向にある区にスッパリと分かれている。この差が教育にストレートに出る。

私立中学への進学率を見てみよう。1位の中央区が40・7%、2位の千代田区が38・8%、3位の文京区が38・7%、4位の港区が33・5%。この4区はまさに勝ち組予備軍の街だ。下位を見てみると、23位が江戸川区の11・1%、22位が足立区の11・5%、21位が葛飾区の12・8%。城東地域が並んでいる。

上位の区と下位の区では3倍以上の差となっているが、これが本当の姿だと思うのはまだ甘い。私立・国立小学校への進学率になると、この差は20倍近くまで広がる。トップは渋谷区の24%。これに対して、東部地域の区はだいたい1%前後だ。そもそも、私立・国立小学校は、都内の中央から西方向にあって東方向にはまるでない。文京区や千代田区では子どものお受験向けマンションが売り出され、経済的に余裕のある教育熱心な層が移ってくる。

文房具や給食費の公的援助を受ける就学援助率も見てみよう。生活保護を受ける条件が「要保護」なのに対し、就学援助は「準要保護」。区によって基準は異なるが、収入の少ない若夫婦はまず対象となる〝豊かでないことの指標〟である。

最も比率の低い千代田区は6・7%で、足立区の47・2%と7倍もの差となっている。公的援助を受けている児童は、千代田区は100人当たり7人以下だが、足立区は半分近くということである。ただ、実態はこの数字以上に開きがある。(つづく)

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2006年11月17日 (金)

【教育】大学受験料の価格破壊

今日の毎日新聞の夕刊1面トップを見て爆笑してしまった。

いま、大学受験料の価格破壊が起きつつあり、複数回受けるとお得になる制度が広がっている。そんな内容の記事で、例として拓殖大学が出ていた。

それがなんと、1回受けると3万5千円、2回受けると3万円、3回受けると4万円だという。1回受けるよりも2回受けるほうが安いのだ。

そこまで何としても受けてほしいんだろうが、それって1回欠席するだけじゃないか?(笑)

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【教育】高校生の文理選択

今日、中3の娘1号の3者面談に行った。私立に行っているので高校受験はないのだが、高1の6月までに文系か理系か決めておくように言われた。文理の選択と、さらにその先の理社の科目選択も。

今の高校生って大変だ。

小中学校の内容がどんどん減らされて、それがみな高校に送り込まれ、高校で学ぶ内容がパンクした。そのため理社は選択性となり、その選択をするため、高校に入って間もない時期に文系か理系か決めろと迫られる。

高校入試を終えたと思ったら、すぐ大学入試の話が降りかかってくるんだもんなあ。

文理の選択をミスるとかなり大変なことになるからよく考えましょう、と。

娘1号の中学では、以前は文理で共通する科目も多かったけど、この前から、同じ科目でも文系と理系で中身が違うカリキュラムにしたから、高3になるときに逆へ移ることはできなくなったとも。ホント大変ね。

ぼくは今でも世界史が弱点だけど、高校のときの教師が理系クラスだからと手を抜いたことも一因だ。何もわかってないぼくが授業した方がまだマシなんじゃないかと思えるしょーもない授業だった。

ぼくは昔、浪人して秋になってから文転し、必要な科目は独習した。それを思うと、今の方が大変と感じるのはノスタルジーにすぎないのだろうか。とはいっても、今は社会のあらゆる面でコースが緻密になり、そこから外れると大変になる。それは確かだ。

娘1号はどうやら理系を選びそう。ぼくが以前から理系びいきの発言をしてきた影響かもしれないけど、自分は根っから文系なのでさびしさを感じるのも事実。

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2006年11月16日 (木)

【教育】教育格差1

8月終わりから9月にかけて「日刊ゲンダイ」でした連載から。内容は拙著『教育格差絶望社会』と一緒。文体がほんの少しだけ通俗的になってる感じでしょうか(笑)。

 * * *

最近、知り合いが愚痴を言っていた。

「フツー、小学校の運動会で、校庭にビニールシート敷いて、そこで親たちがビールを飲みますかねえ」

この人は東京都の板橋区に住んでいる。

「あ、ビールじゃなくて発泡酒なんですけど、真っ金々の頭をした20代後半の夫婦が、タバコの吸い殻をブチまけながらドンチャン騒ぎ。ウチの子は絶対こんな学校に入れたくないですよ!」

同じような話を江戸川区の人からも聞いた。最近の小学校はうるさいから、酒は持ち込み禁止のはずなのだが、それでも酒盛りを始めてしまう親がいるのだろう。

文京区に住む人にこの話をしてみた。

「いや、そんなことはありえないよ。最近は校庭だって禁煙だもん。それは地域格差なんかじゃなくて、単なる特殊な例じゃないの?」

同じ東京都でありながら、まるで別の地域、いや別の国のようだ。

一般に教育格差とは親の経済力の差だとされているが、現場の教員に聞くと、それ以前に親の意識の差であるという。その意識と経済力がピタリと一致していることに難しさがある。経済力があって教育意欲もある親と、経済力がなくて教育意欲なんてない親に二極化しているのである。

親たちは同じ地域に似たもの同士が集まって住みたがる傾向がある。その結果として、子供の教育に熱心な親は、子供が通う予定の小学校をキッチリ調べてから、マンションを購入する。今では公立の幼稚園や小学校などの教育環境は、カネで買うものになったのだ。私立なら高い学費を覚悟すればそれなりのレベルを期待することができるが、公立だと〝土地〟ごと買わなくてはならない。

ただ、たとえば東京都でも、豊かな区の小学校は環境がよく、貧しい区の小学校は環境が悪いと単純には言えない。現実はもっと細かくまだら状になっているのだ。豊かな区というのは、問題家庭の比率が少なく、マナーの悪い父母に苦労している小学校の少ない地域だ。そうした豊かな区の中に名門校もあれば、そのかたわらに寄り添うように非名門校がある。公立小学校であっても、名門・非名門が隣り合わせに存在しているのである。

2000年度の品川区を初めとして学校の自由選択性が導入されてから、わが子を名門校に通わせようという親が一気に増えた。名門校にはパンクするほどの希望が集まり、そういった現実に関心を持たない親の子は非名門校に通う。こうして狭い地域の中でも学校格差は拡がる。明日から教育格差の惨憺たる現状について報告していこう。(つづく)

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2006年11月15日 (水)

【教育】教育基本法

うーむ。教育基本法の改正が通ってしまったか。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20061115it11.htm?from=rss
これで戦後の枠組がひとつ崩れた。

まさかこれが憲法改正の序章になるんじゃあるまいな。

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【麻雀】雀荘に沈む学歴差

学歴って大きいのかもしれない。雀荘のメンバーたちを見ていてそう思った。10代後半で麻雀にハマり雀荘のメンバーになった者のうち、大学生だった者とそうじゃなかった者では、その後が不思議と違っていた。

竹崎というヤツがいた。専門学校の在学中に麻雀にハマり、メンバーになった。学校はそのままやめてしまった。しばらくして親が介入し、また別の学校に入りなおした。けれども2年くらいして、また雀荘に戻ってきて再びハマってしまった。

その店では給料をもらえる者は一握りにすぎず、大半は働けば働くほど給料をもらうどころか借金を背負ってしまう。バックレてしまえばいいのだが、みなそれでやめるにやめられなくなる。竹崎は2回ともそれでハマった。

何年もたってから、竹崎と偶然に再会した。エロ本屋の店員となっていた。一緒に酒を飲んだ。彼はぼくの弟子みたいな感じだったから、心の交流はあったけど、話の内容はつまらなかった。エロ本屋の店員の権力関係とか、その店の将来性とか、そんな話ばかりだった。

そのあとまたすれ違ったとき、ぼくは知り合いと一緒だったから彼に声をかけなかった。それが傷つけたのだろう。それからは会っても無視されるようになってしまった。

伊須というヤツがいた。学年の半分近くが東大に行く高校で、彼は麻雀にハマった結果、千葉大に入った。千葉大も立派な国立大学なのだが、彼の高校から千葉大に行くのは落ちこぼれなのだった。

伊須はほとんど大学には行かず、4年ほど麻雀にハマり続けていたが、何のきっかけだったかまともな学生に戻り、卒業してまっとうな社会人になった。彼は立ち直ったのだった。

同じようなケースをいくつか見た。この違いは何なのか。大学生という立場が大きいのか。大学生になる者は視野の持ち方が違うのか。それとも家庭のバックアップ態勢が違うのか。違いはよくわからないけど、大学生は立ち直り、専門学校生は立ち直れない、そんな法則がある。元からのフリーターはまた違うけど。

ぼくもまた大学生という立場でハマり、その数年を経てかろうじて社会復帰した立場だから、そうじゃない立場の心情は結局わからないのだ。

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2006年11月14日 (火)

【教育】『プレジデント』に紹介される

昨日発売の『プレジデント』に、ぼくの本『教育格差絶望社会』が紹介された。芥川賞作家である藤原智美さんが3冊の本を紹介しながら教育を語っているページにて。

http://www.fujisan.co.jp/Product/5774/
●世の中の読み方
科目履修もれの背景にある教育とは ● 藤原智美

単純にいうなら、今の高校が予備校化してるってな内容。

一緒に紹介されている本の1冊は未読だが、1冊はつまらんから途中で読むのを止めた本だったけど…、い、いや、何でもないです(笑)。

この藤原智美さんは小説家でありながら、教育に関する本も何冊か書いており、教育については詳しい人。なのに、常識に近いことを『教育格差絶望社会』によると~と書いていて、そ、そんな当たり前のことなのに、わざわざ基底本としていただかなくても…と思っちまった(笑)。

まあ何にせよ、ありがとうございます。

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2006年11月13日 (月)

【教育】小学校校長の自殺

北九州市で小学校校長(56)が自殺した。

11日に過去のいじめを隠していた件を報道されている。記者会見では「いじめと認識しながら市教委に正確に報告しなかった。誠に申し訳ない」と話していた。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/ne_06111301.htm

大の大人なんだし、ましてや子どもを導く立場なんだから自殺までしなくてもと思うが、教師というのはマジメな人が多いものだし、なかでも出世してきた人だから悪いこととは無縁だったんだろう。打たれ弱くても不思議はない。

日本の自殺者は年間3万2千人。1日平均88人だ。16分に1人が自殺している。

その現状自体が異常ではあるのだが、それが片っ端から報道されたら自殺だらけという印象になってしまう。これくらいのことは普段から起こっており、最近はその報道が増えているに過ぎない…はずだ。

未履修問題が発覚したころから、教育現場はヤバイぞと感じさせる報道がすごく増えている。報道には流行りがあるので、上手く仕掛ければこんな状態は作り出せる。最初に仕掛けた者の狙いは成功したが、その後教育を巡る報道が増えるに従い、彼らにとってマイナスの報道まで増えてしまったのが現状ではなかろうか。

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2006年11月12日 (日)

【教育】規範はゆるんでいるか?

最近、客観情報を装った感情的な報道が多い。子どもの自殺報道などその典型だろう。

誰だって、子どもが自殺したと聞けばショックを受けるし、これから自殺すると予告されたら説得しようという気になる。そして、子どもの自殺に関する報道が多くなると、世も末だという気分になる。

多くの人は感傷に流され、本当に子どもの自殺は増えているのか? 本当に世も末なのか? といった検証はなされないまま、世も末だという感情が蓄積されてゆく。これは漠然とした気分だから、数字で検証するようなものではないのだ。

そんな大衆的気分に、規範・倫理・愛国心などを主張する連中は付け込んでくる。

安倍内閣の設置した教育再生会議の「規範意識・家族・地域教育再生」部会など、そのひとつだ。本当に規範はゆるんでいるのか? そんな疑問はすっ飛ばしてしまい、規範の再構築が語られるのだ。

たしかに、10代の性経験率などは高まっているだろう。(統計的根拠はないけれども)このデータ↓は正しくないと思う。中学生など、もっと高かろう。
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200611110263.html

だが、それ以外の規範については、さほど悪化してないんじゃないか。単純に考えて、相対的に豊かな時代に育った子どものほうが、ゆとりがあるぶん品性は上がる。衣食足りて礼節を知る、なのだ。

国家の品格とか、教育の品格とか、「家庭の教育力が低下している」などと主張する輩は、この本↓くらいは読んだ上で言っているのか?
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061494481/

ろくに現実を調べもせず、自分の言いたいことだけたれ流す連中の品格こそ問いたい。

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2006年11月11日 (土)

【教育】底が抜ける日本

最近テレビで教育ネタが多い。いじめ問題が語られたりする。そういった番組を観ていて思う。豊かな人の説教に意味はないと。

たとえば「おもいッきりテレビ」で、深夜の居酒屋に子連れで来る人たちを司会のみのもんたやオバチャンが非難していた。

たしかに、子どもの生活時間を考えると望ましいことではない。だが、その時間に家族で居酒屋に行くのが一家団欒だという家庭も多いだろう。最近は各種サービス業で営業時間が長くなり、終業が22時、23時なんて仕事も多い。夫婦ともそういった仕事に就いていたら、家族がそろって夕飯を食うのは夜中になる。彼らに対して、深夜に子どもを連れ回すなと非難するのは、一家団欒するなと言っているに等しい。夜遊びで遅くなっているケースなど、むしろ少数派ではないか。

また別の問題だが、働くようになっても実家にいる若者をパラサイトシングルと呼ぶ。家賃負担をパラサイト(寄生)しているという意味だ。

といっても、それが該当するのは豊かな家庭だ。高校時代から家にバイト代を入れ、家族を支えている若者も多い。高卒フリーター層でそういったケースは例外ではなく、『18歳の今を生きぬく―高卒1年目の選択』(青木書店)など読むと、そんなケースがいっぱい出てくる。パラサイトシングルは、親に寄生しているイメージで考えられているが、その概念が該当するのは豊かな家庭だけだ。

さらに別な問題だ。全国の1割もの高校で必修科目の未履修があった事件(本当の数字は3割を超すと思う)で、伊吹文部大臣はセンター試験を見直すべきだと語り、必修科目の再検討とセンター試験の再構築を指示している。

だが、センター試験を受けるのは大学を目指す子だけ。受験者数は同世代人口の4割弱だ。高校の問題を大学入試によって解決しようとするのだから、大学に進学しない子が半分もいるのに、彼らは無視されている。

『希望格差社会』の山田昌弘氏は、少子化問題について全国一律の施策は意味がないのではないかと言う。地域によって実情はまるで違っており、出産や子育てについて、キャリア女性の抱える問題とフリーターの問題とは違うから、共通の対策を取ろうとしても有効ではないのだと。

教育の各問題についても同じことが言えるんじゃないか。おそらく一律の解答なんて存在しない。あちこちで議論されている対策は、論者の持つ常識から出てきたもので、そういったことを語る人は経済的上位層だから、一定割合しか想定されていないのだ。

今の日本では、生活保護が1%。就学援助は10%。高卒終了が30%。そして、たいていの議論は上位3~7割くらいが対象になっている。全体の何%が該当しているかという視点のない意見は無意味だと思う。

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2006年11月10日 (金)

【つぶ】日刊ゲンダイで連載

日刊ゲンダイで20日から1週間だけ連載する。

仕事が完全に破綻してるのに、フリーランスなので依頼の断り方を知らない。それに依頼されること自体、評価の証だからありがたいと思ってしまう。

著者―編集者―読者は、信頼や好きという感情で、メディアの枠を超えてつながるものだって気がする。そういう心がエネルギー源なんじゃないか。

安倍政権の教育改革を多面的にチェックするってな内容。

まあ、スケジュールはなんとかなるだろー。

本当になんとかなるのか?(°°;)

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2006年11月 9日 (木)

【教育】いじめ格差

最近、いじめが話題になることが多い。

いじめが教師の介入で簡単に解決できるというアプローチは、最近ではほぼ見なくなった。

・親が学校に行かせようとすることがわが子を追い込むから、不登校まで選択肢に入れよう
・親と教師が手を組んで大人のネットワークを作ることが大事

などの意見がメインストリームだろうか。

そういった意見は、しっかりした親がいることが前提になっている。

「もう学校に行かなくてもいいぞ。何があっても守ってやるからな」

そう言ってくれる親がいるかどうか。その差は途方もなく大きい。

親が昼も夜も働いてて子どもとロクに話もできない母子家庭とか、親がすぐパチンコに行ってしまい常に借金に追われている遊び人家庭とか、そういった家庭では、子どもは親にいじめの悩みを打ち明けることもできないのだ。

教育格差というと、塾に行かせられる家庭と行かせられない家庭の経済格差などと語られることが多いけれども、根源的な差は親の意識と行動にある。

“下流”家庭の子は、安定した生活を営む点ですでにハンディキャップを負っており、親がセイフティーネットとして機能しない。そのため彼らは勉強以前に「心の余裕」の面で落ちこぼれてしまい、だからこそ、これほどまでに貧乏人の子は成績が悪い状況となってしまうのだ。

経済力以前の差。そこにこそ教育格差の根本がある。

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2006年11月 8日 (水)

【教育】消えつつある大学入試

ついに国立大でも推薦・AO枠を上限5割まで拡大する。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061107i201.htm?from=rss

すでに私大は学生の5割が推薦・AOであり、これから国立も一部の難関校を別にすればほぼ5割になるんじゃないか。大学生の半分は一般入試を受けていない時代となる。

こうして推薦がメインコースになっていけば、最近の未履修問題など“受験狂病”は解決するじゃないか! 最近の“受験がすべて”って空気は相当なもんがあるからさ。

でも…、それでいいのか? 大学や高校はどう考えているのだろう?

推薦で入った学生は一般入試で入った学生に比べて、学力で劣るようによく言われる。実際のところはどうなのか。どの大学でも追跡調査をしているはずだが、実際どうなのかは聞いたことがない。

こうして入試を突破する学生はさらに少なくなり、その狭い枠を目指して競争は一部でさらに過熱してゆく。そして、それ以外の多くの人たちは、ほとんど競争しなくなってゆく。

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2006年11月 7日 (火)

【教育】即戦力獲得競争

今週、フジテレビは教育週間とのことで、朝の「とくダネ!」で教育特集をやっている。

今日の内容は、自治体が独自に即戦力の教師を養成しようとする動きで、東京杉並区の「杉並師範館」を扱っていた。制度に関してはよくわからなかったのだが、他の市区町村に移動しない区自前の優秀な教師を育てようということだろう。同様の動きは全国に広がっているようだ。

これは2007年から始まる団塊の世代の大量退職に備えてのものだが、それだけではない。人口減少時代になったら、自治体間で人材の奪い合いが起きるのは自然なことだ。自治体だけではなく、どの業種でも人材の奪い合いと囲い込みが活発化するはず。その動きはすでにあちこちで見ることができる。

それにしても、現場の先生の努力を見ると、ホント頭が下がるなあ。いいかげんな批評はしちゃいかんと改めて思う。教員バッシングは書いてないつもりなんですけどね。

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2006年11月 6日 (月)

【教育】2件目の自殺

未履修問題で校長の自殺は2人目となった。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20061106it04.htm
http://www.asahi.com/national/update/1030/TKY200610300315.html

1件だけなら、そのときたまたま鬱だったのかもと思えるが、2件重なるとそうはいかない。事態は深刻だ。

この問題は一般市民が想像する以上に教育現場管理職の弱みを突いているのだろう。これまで積み上げてきたすべてが無に帰した感覚と、顔向けできない感情なのか。

今回問題になったのは進学校が多い。進学実績を上げないと生き残れないという切迫感と、ルール破りの板ばさみ。校長先生も大変だ。

これは誰が仕掛けた事件なのかまだわからないが、現場を揺さぶることでは絶大な効果を上げたようだ。

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2006年11月 5日 (日)

【教育】未履修問題のリーク者は誰か?

未履修問題の責任がこれから問われる。私学では助成金削減が言及されており、公立でも人事問題になるかもしれない。公立高校では高校の格が校長の格になっており、それがその後の教育委員への出世につながっているはず。そういったシステムが混乱に陥る。

ところで、この問題の発端となったのは富山県の高校だったが、どこから情報がリークされたのだろう?

以前は黙認されていたことが、マスコミを使って原理原則に照らしていきなり問題視されてしまったわけだから、単なるスキャンダルではない。地方自治体の裏金問題とは違うのだ。

これから教育委員会という制度が問題にされるだろう。教育行政制度の大きな再編につながっていくかもしれない。

そう思うと、現状の制度に不満を持つ勢力によって仕掛けられたのではないかと思いたくなる。時期にしても、1月や2月なら現実的に補習など無理だし、5月や6月だったら夏休みがあるから現場もこれほど混乱しなかった。秋というのは、現場を困らせるためには絶好のタイミングだ。そしていま国会では、教育基本法の改正についてまさに審議中。

あくまで状況証拠だが、この問題は安倍政権の周辺によって起こされたのではないかと思われるのだ。

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2006年11月 3日 (金)

【教育】変貌する受験産業

本屋の実用書コーナーに行くと、『図解○○業界』とか『一目でわかる○○業界』という本が置かれている。不動産であったり、金融であったり、一冊で各種産業が概観されているわけだが、そのなかに『よくわかる教育産業』とか『一望できる受験産業』という本はない。教育産業をまとめて扱った本は一冊たりとも存在しないのだ。

唯一あるのはこの本↓だが、これも残念ながら、いくつかの塾の情報を集めたに過ぎず、マーケット全体を扱ったものではない。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4782531621/

なぜ存在しないのか? そういった本を出しているある出版社の人に聞いたところでは、出したいけれども、適切な書き手がいないという。幅が広すぎるし、地域によって多様に分布しているから、とにかく扱いにくいのだ。

21世紀になって、受験産業は大きく揺れ動いている。いろんな傾向があるけれども、・大学受験市場の縮小、・中学受験市場の拡大、・塾間の連携化、・サービス内容の多様化などが挙げられるだろう。順番に見ていこう。

すでに大学全入時代が到来しているため、大学受験市場は縮小しつつある。高校受験も同様だ。そこで塾や予備校は、サービスを多様化している。たとえば、集団授業を受けながら苦手分野では個別指導を受けるとか、かゆいところに手が届くサービスが競われている。そこまでしてくれるのかと驚いてしまうほどの過保護ぶりだ。

その一方で、中学受験市場は拡大している。中学受験しない子でも小学生の塾通いは普通のことになった。また小学校受験をはじめとして、幼児教育も拡大している。

そして生徒が減少しているため、どの塾でも生徒を囲い込むようになった。以前は中学受験なら中学受験、大学受験なら大学受験と、守備範囲を守っている塾が多かったが、最近では専門外のノウハウは他の塾と提携することによって手に入れ、ずっと生徒を囲い込む傾向が強まっている。

また、サービスの多様化も進んでおり、大手予備校では教師用の授業を行ったり、以前では考えられなかったサービスも登場している。

全体としては、受験産業自体はゆるやかに縮小し、大手の寡占化が進んでいる。中小の塾には冬の時代だ。

今の親世代は塾に通ったことのない人も多い。通った経験のある人でも、今の塾や受験がどういうものかは、あらためて調べてみないと思わぬ勘違いをしてしまったりする。

もっとも、昨今の学力不安には底知れないものがあり、お気楽な勘違い父さんなど最近は見かけなくなった。そこまで不安を抱いてもしょうがないのにと思うことは多い。親はなくとも子は育つし、子育ての半分くらいは放っておくことだと思うのだが。

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2006年11月 2日 (木)

【教育】未履修問題に寄せて

昨日の日記に書いたように、今回の未履修問題について、ぼくの意見は、必修なんてもんで縛らず、好きにやらせてやれよということになる。つまり、おとがめゼロでいい。

公立中学から公立高校に進み(いや私立高校でも同じことだ)、国公立大学を受ける子は、ホント大変だしえらいよなと思う。なんで彼らをさらに縛ろうとするんだろう。

ただし個人的な感想としては逆で、(現実には無理なんだからしょうがないけど)理社はできるだけやっといたほうがいいぞとも思う。

高校でやる教科は、英数国は論理力のトレーニングであり、理社は実学だ。それは役立つ知識なのだ。

ぼくが高校生だった時代には、高校の理社はほぼ全部やるものだった。その後のカリキュラム変更で、小中学校でやる内容がどんどん減らされ、その内容がみな高校に来て、全部やるのは無理だってことになり、選択性になった。そのため、当時は物理の履修率は80%あったものが、今は10%になっている。

ぼく自身のケースでは、高校で社会は「世界史」「地理」「倫社」「政経」の授業を受けた。しょぼい私立高校だったため、理系コースだと「日本史」は取れなかった。

理科は「物理」「化学」「生物」の授業を受けた(文系コースに行ってたら「物理」「化学」のどちらかしか取れなかった)。

当時は、高2から文系と理系に分けてしまう私立高校でも(当時の公立は高3から文理を分けていた)、理社をほぼ全部やるのが当たり前だったのだ。

高校の授業を受けたくらいじゃたいした知識なんて身につくわけじゃない。それでも、基盤となる知識を持ってることは、その後けっこう役立ったりする。得意分野だったら授業などいらないが、苦手な分野は最低の基盤を持っているかどうかって大きな差だ。

その後、「地理」「倫社」「政経」は、大学時代や大人になって読んだ本により、基本的な知識は身につけたと思う。そのベースとして、当時の授業は役立っている。当時は一番嫌いだった公民系の分野が、今では一番詳しくなっている。

今でも不足を感じるのは「世界史」だ。中学でも高校でも授業を受けたが、その内容はひどいもんだった。まともな授業を受けたかったけど、高校の世界史など単なる雑談でしかなかったから、授業など聞かず本を読んでいたことも多かった。世界史の知識を一通り身につけるため、受験科目に選ぼうかとも思ったけど、それはあまりに負担が重すぎた。

大人になって政治経済系の本を読むことによって、20世紀の歴史はだいたい把握したと思うけど、17~19世紀のヨーロッパ史は身についてない。古代から中世までは趣味の範疇だから古文漢文同様に知りたい人は知ればいい程度のものだが、近現代史は今の世の中を理解するために必要だ。高校時代あるいは大学時代のサボりを今も引きずっている。

入試で使ったのは、共通一次(センター試験)は「日本史」「倫社」「物理」「化学」、二次は「日本史」「地理」だった。理系に行く予定から秋に文転したため、急遽、二次の社会2科目が必要になった。そのとき選んだのが、ひとつは「地理」で、ひとつは授業を受けてない「日本史」だった。根本は授業のあるなしではなく好き嫌いで、小学生時代に大河ドラマなどを観ていた影響だ。

ぼくは根っから文系人間なので、数学、物理、化学は全部忘れちゃったけど、それでも数学や物理をやったことは大きかったと思う。今の中学ではph(ペーハー)すら習わなくなってしまったが、浸透圧とか、微積分とか、ニュートン力学とか、それくらいの基礎概念を知ってることって、大きいと思うんだよね。

なので、理社を一通りやっておくことは大事だと個人的には思う。でも残念ながら、今の高校生にそう言うことはできなくなっている。それは、別の時代を生きてきた者のノスタルジーにすぎないから。

誰だって大事なのは「今」であって、将来の教養のために今の受験を捨てろなんて、責任のない立場だから言えることにすぎない。すなわち諸悪の根源は受験制度にある。

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2006年11月 1日 (水)

【教育】未履修問題の根本は何か?

未履修問題は拡大する一途となっている。各地の高校で、必修科目の授業を生徒が受けていなかった問題だ。生徒の問題ではなく、高校側がそんなカリキュラムを組んでいた。

この問題は全国に広がっているが、あえていうなら地方の公立高校が多い。それも、2002年の新課程になってから増えたという。つまり、週休2日制になり、さらに高校でやる内容が増えてから、それでも大学進学実績を求められてしまう高校が、やむなく手を染めるようになったケースが多いのだ。(※その後、私立高校のほうがやや多いことが判明。)

今、地方の公立進学校では、生徒たちがどれほど勉強漬けにされていることか。もう悲惨なもんだ。クラブ活動すら禁止される事態も起きている。必死で受験対策の3年間を送っている生徒と送らせている高校を、今回の未履修問題が襲った。ホント気の毒だと思う。

なぜ、いまだにこんな建前が問題にされてしまうのだろう。受験に関係ない科目なんて生徒だってやりたくないし、高校だってやらせたくない。なぜ生徒も高校側も受験対策ばかりやりたがるのか。それは、そのほうが「得」だからだ。

もし、世界史や公民をきちんとやっていることが評価される世の中だったら、生徒だって必修で縛られずとも学ぼうとするだろう。幅広い教養が大事だというお題目を唱える人はいるけれども、実際にそれが問われる世の中ではない。そんなことは建前にすぎないと誰でも了解している。

ルールはルールだからという形式的なお題目などを唱えているようでは、いつまでたっても事態は変わらない。ルール破りをしたくなる「歪み」を解消しないと、抜本的な解決にはならないし、小手先の対策を続けることは教育を腐らせるだけではないか。

根本は受験制度にある。そして、学校で学ぶ内容と受験とのダブルスタンダードが両立している構造にある。たとえば、大学入試に「社会総合」とか「理科総合」という科目があって(理科は実際にある、入試ではほとんど使われないが)、そこですべての内容が問われるようになっていれば、こんな問題は起きないのだ。

ここで話は飛ぶけれども、万引きと脱税はどちらが罪は軽いだろうか? 問い方を変えるなら、どちらの罪が敷居は低いのか?

普通に考えたら、明らかに万引きだ。そこらの子どもはみんなやっている。だが最近では、万引きしたことないけれども脱税する者が増えている。

なぜ、そうなるのか。勝者一人勝ち社会は経済犯罪を生み出す。勝者と敗者の差があまりにも大きいと、品のいいエリート候補たちも平気でルールを犯すようになってしまうのだ。

「『うそつき病』がはびこるアメリカ」という本があって、そこには、アメリカの名門高校で、いかにカンニングやレポートのパクりが横行しており、医者に金を積んで学習障害の診断書を取ることすら増えているかという現状が報告されている。学習障害の診断書があると、試験時間が長くなって有利になる。

必修科目を学ぶかどうかなんてかわいいもんだ。経済格差の拡大の果てには、さらなるモラルの失墜が待っている。日本が追いかけているアメリカはそんな社会だ。

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