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2006年9月の4件の投稿

2006年9月12日 (火)

【教育】増刷!

『教育格差絶望社会』の増刷が決まったと、いま担当者からメールが来た。
2000部。 やった!

とにかく、アマゾンでも、bk1でも、イーエスブックスでも、Yahoo!ブックスでも、本やタウンでも、買えるようにしてほしい。ネット書店すべてが品切れとなり、「ただいま取り扱いできません」なんだもん。

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2006年9月 8日 (金)

【教育】階層化した公園デビュー

面白い話を聞いた。

とある市では、ヤンキー系の住民とリーマン系の住人に激しく分かれているらしい。同じような現象は各地にあるけど、それがとくに激しいという。

「公園デビュー」という言葉があって、幼児のいる母親は子どもを公園に連れてゆき、母親どうし、子どもどうしで交流するもんだ。それは猫の集会に似ている。子どもは他の子と一緒に遊び、お母さんは他のお母さんと情報交換とか世間話をする。

その市では、公園の縄張りが完全に階層化しており、ヤンキー系とリーマン系に分かれているとか。まったく交流することはないのだという。こうして幼児のうちから、ヤンキーの子はヤンキー予備軍とだけ遊び、リーマンの子はリーマン予備軍とだけ遊ぶのだ。もうちょっと大きくなり、幼稚園や保育園に入っても、そういった場もおそらく棲み分けされているのだろう。

「公立の学校に行くといろんな子と触れ合えるからいい」とよく言うけど、それはほとんど建前だということがわかる。みんな本心では、いろんな人と触れあいたいなんて思っていない。子どものときくらいその方がいいと思っても、自分はそうしたいなんて思っていないのだ。みな似たもの同士でしか交流したくない。

もう10年ほど前のことになるが、うちの子が小さい頃の近所の公園は、それほど階層化していなかった。子どもの年齢で分かれていて、2歳児の集う公園、3歳児の集う公園という分かれ方をしていた。だが、これは階層の分離度が低い地域だったからで、地元族とマンション族の価値観の分離が大きくなると、すなわちヤンキー系とリーマン系にはっきり分かれると、もう交流しなくなるのだろう。そうして自分たちの文化を守るのだ。

この話を聞かせてくれた人は、兄夫婦がその市に住んでいるけれども、教育環境としては絶望的だから中学受験を考えざるを得ないと言っていた。そう、中学受験の大きな要因として、勉強や学力よりも、地元の中学にはどんな子が来るかというのは大きい。

この市では、二つの階層が足立区以上に分離しているというから、調べてみようかって気になるなあ。

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【教育】また書評が

『週刊ポスト』に書評が出た。ページ3分の2。けっこう大きな扱い。今売ってる号で、評者は与那原恵さん。

じつは、京都新聞とか、神戸新聞とか、地方紙の一部でも書評欄で取り上げられており、それも与那原さんによるものだった。

どちらも内容は近くて、子どもの受けられる教育には親の経済力によって格差がつきつつあるけど、どちらにしても虚しいもんじゃないか。そこには学ぶ楽しみがないって内容。まったくその通りだと思う。

では、子どもが学ぶ楽しみを持てるようにするにはどうすればいいか? それは教育の脱‐競争化しかないだろう。受験制度を改めることだ。

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2006年9月 1日 (金)

【つぶ】器と調理法

文章を書くときに、媒体や企画の内容によって、どんな風に書くかすごく考えてしまう。それは仕事であってもなくても同じこと。文章は絶対的なものではなく、場によって変わるのだ。

たとえば、ぼくはミクシィでは顔文字使いまくりだが、ブログでは使わない。ミクシィはおしゃべりの場だが、ブログは文章の場だとなんとなく感じているから。

ただ、気にしすぎということはあるもので、仕事の場合には意識しすぎたと反省することが多い。今連載している「日刊ゲンダイ」では、新聞という媒体でジャーナリストという肩書きであることから、事実関係ばかりの淡々とした文章にしすぎた。

1回目を見たとき、そのことに気づいたけど、すでに7回目まで渡してしまっていたので、修正できなかった。残りのわずかな回数は、もうちょっと主観的なタイプの文章にしよう。

「器」に収まった姿を見たときに、「調理法」が違っていたといつも気づく。反省することばかりで、これが俺なんだという開き直りの境地には、いつまでたっても至らない。

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