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2006年7月25日 (火)

【教育】日本の向かうべき方向

ぼくの本『教育格差絶望社会』では、自分なりの解答を示していない。これから日本の教育がどちらに向かうべきなのか何も書いていないのだ。これは単純な「教育」よりも「教育格差」を主題にしたからだし、現実性のない提言は今起きている現実に対して説得力を失うだけだと考えたからでもある。

それでは、どちらに向かうべきなのか。それは脱「競争」化しかないだろう。節目を受験という競争で区切ったシステムから脱出するべきなのだと思う。

教育には、子どもに知識を身に付けさせるプラスの面と、子どもを選別するマイナスの側面がある。どちらが本来の教育かといえば前者だが、日本の社会システムとしては後者が強い。これは多くの親が、わが子が勉強している内容には興味を持たなくとも、子どもの進む学校名にはすごく熱意を持つことに表れている。親は、社会経験によって「正解」を知っているのだ。

これまで日本社会は、教育を選別の道具に使いすぎたんじゃないか。子どもの人数が減る局面に入って、選別―競争システムが有効に働かなくなっても、旧制度を引きずっていることが、負の遺産となりつつある。

どのようにして、この競争システムはできたのか。企業の人事部が大きな影響を与えてきたことは間違いないが、それだけない。地域社会が全体としてそれを望んできたように思える。

昭和30年代から高校進学率が急上昇するとともに、進学する高校名によって、その子の格付けがなされるシステムがあっという間にできていった。このシステムは、農業科、商業科、工業科などの職業科が不人気になり、普通科の一人勝ち状態になって、ますます一元的になっていった。今でも地方ではこの価値観がものすごく強い。

しかし、子どもの人数が減るに及んでは、競争はさほど有効に機能しない。また、工業の時代が終わってポスト工業と時代になり、これからは知識が重要な資産になるから、その知識を空洞化させるような受験システムはマイナスでしかない。

これまでのシステムでは、偏差値システムの頂点に立つ者よりも、途中で偏差値システムを抜け出してしまった者のほうが、学ぶ楽しみに近いことは珍しくなかった。知る楽しみを味わっているようでは効率が上がらないから、テスト主義は知る楽しみを失わせるのだ。子どもがポケモンの名前をあっという間に覚えてしまうように、本来、知ることは楽しいことだ。偏差値システムは、知る楽しみを捨てさせることで機械的労働者に仕立て上げる制度であり、偏差値強者は知る喜びから遠いところにいる。

でも、好きなポケモンの名前を覚えるのって勉強なの? たとえ楽しい知識じゃなくても、必要なことを身につけることが勉強なんじゃないの? そんな疑問がわくだろう。そう、ぼく自身そんな疑問を捨てられない。やはり競争の教育の中で育ってきた者には、非競争の教育はイメージできない。どうしても総論賛成、各論反対になってしまう。

非競争教育の成功例としてフィンランドの実例もすでにある。だから、そちらへの移行はやればできる変革のはずだが、年配者が実権を持っている日本では、そちらに動き出す気配はない。今の50~60代は、世の中のルールが変わってしまい、自分たちの時代は終わってしまった現実を直視することが怖くて怖くてしょうがないから、心の深いところに結びついている教育ルールを変えることに賛成するはずもない。

最近、『変えよう! 日本の学校システム 教育に競争はいらない』という本を読んだ。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4582824471/
教育委員会はどのような歴史的経緯からできたもので、どうして実質的に空洞化されたのかなど、じつにわかりやすく書かれていて、ものすごく勉強になった。著者は塾の先生で、教育にとって競争はマイナスでしかないことが体験的に解かれている。すばらしい本だ。

日本の教育が向かうべき方向は、全体が丸ごと脱競争化することだと思う。だが現実は、金にゆとりある層がよりハードな競争に走り出しており、残りの大半が無競争化する方向に向かっている。まさにアメリカ型であり、これだと将来は暗いんじゃないか。世界は知識社会に向かうというのに、このままいくと大半の子どもは知識の楽しみから疎外された10代を送ることになってしまう。のんびりと自然にいこう。それが教育の世界でも正解になる時代になったのだ。

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コメント

教育による選抜。
功罪はあると思う。

地域閥による薩長政権が明治とすれば、戦後は学閥による帝大政権であり、学閥商業が天下の中心となった。その世界が、まさに昭和という時代だ。
血縁が主たる江戸時代はともかく、少なくとも学閥というシステムは、最低限の能力を担保することで、官僚的社会には有効であったと思っています。
実際、東大出の子は、3流私立出よりは基本スペックが高い場合が多いですから。

次のステップでは、何がものさしとなるのでしょうか。
智仁勇を備えた人間を育てるシステム、あるんでしょうか。
まとまっていませんが、とりあえず送信(w

投稿: 小鳥たけお | 2006年7月25日 (火) 03時51分

>小鳥たけおさん

何度か学級参観に行ってショックを受けたのは、学校はサラリーマン養成所なのかってことです。「協調」ばかり指導していて、自立とか責任を教えてる気配がありません。
それでいて、テストは個人のものなんですよね。点数としての責任だけあって、行動の責任や発言の責任は問われないという不思議な空間だと思いましたね。
いや、そんな学校批判する気はないんですが。

投稿: 福地 | 2006年7月26日 (水) 10時19分

学校は、基本としてサラリーマン養成所なのでしょうね。
軍服を着せているとこからして、システムの中の部品にしようという意思が、はっきりと現れています。
それの良し悪しはいろいろあるとは思いますが、それより怖いのは、その養成所としての機能すら失いつつあるという点です。
テレビやゲーム、携帯電話、食生活や家族構成。親の受けた教育、親の思考・思想、経済力。
それらが複合して、集中力を保てない子や、ひきこもりなどの子が増大しているのでしょう。

私は養成所のシステムになじめなかったタイプですが、社会というものを思う時、それが機能していることは、決して悪くはないとも思っています。
はみ出す子は、自覚を持ってはみ出すのはアリだと思います。自覚なくはみ出す、言い換えれば養成所の構成員にすらなれずにはみ出さざるをえない子は、問題かなと。

これからの社会は、ちょっと怖い気がしています。

投稿: 小鳥たけお | 2006年7月26日 (水) 17時54分

>小鳥たけおさん

時間が空いちゃってすいません。

日本の学校は、「ひたすら協調性」路線から崩れつつあるのですが、といって、そこに新たな向かうべき方向がきちんと合意されているわけではないので、それが現状のマズイ点ですね。「教育とは何のためのものか」という哲学が揺らいでいると思います。

投稿: 福地 | 2006年7月28日 (金) 13時03分

 拙著「変えよう!日本の学校システム」を的確に読み取っていただき、また、紹介をいただき、たいへん嬉しいです。ネット上で検索して、こちらのブログを知りました。
 私こそ、「教育格差絶望社会」で多くのことを学ばせてもらっています。
 これからの方向は脱競争化だということ、深く共感しています。

投稿: 古山明男 | 2006年8月23日 (水) 12時32分

>古山明男さん

ありがとうございます!
名著の著者に書き込んでいただいたことに、嬉しさもひとしおです。
体験的に書かれた脱‐競争主義のすすめは、すごく説得力がありました。素晴らしい本だと思ったため、アマゾンにもレビューを書きました。
また、よろしくお願いいたします!

投稿: 福地 | 2006年8月24日 (木) 05時08分

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