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2006年7月の29件の投稿

2006年7月29日 (土)

【麻雀】麻雀打ちの「環世界」

昨日、一緒に酒を飲んだ編集者氏が、1冊の薄い文庫本をくれた。

これを中学生のとき読んだ人が、この本にすごく影響を受けて日本を代表する動物行動学者になったんですよ。で、最近になって、あの本を復刊させたいと言って復刊させたんですね、と。

『生物から見た世界』(ユクスキュル、岩波文庫)という本。

たまたま題名だけは知ってたけど、そーか、そーゆー本だったのか。敏腕編集者って違うな。てなわけで、さっきドトールで読んだ。こんな内容。

 * * *

生物の種類によって「環境」はまったく違っている。

たとえばダニは、木の上にいて、下を哺乳類が通ったときに落下し、皮膚に食いついて血を吸い、満腹したら落下して、やがて産卵して死ぬ。これは哺乳類を「待ち伏せ」してるようだが、そういう合目的な行動ではない。

ダニは目が見えないので、明るさによって木に登り、酪酸の臭いによって落下し、温度によって皮膚へ前進し、吸血する。それだけ。その知覚世界は人間が思うような三次元のものでは無論ないし、それどころか、二次元でも、一次元ですらない。ただ、「反射」によって動いているにすぎない。そう「設計」されているのだ。

また、ある鳥は、猫が仲間の鳥をくわえて歩いていると攻撃する。猫の口がふさがっているから合目的な行動のようだが、人間が黒い雑巾を手に持って差し出しても同じように攻撃してくることから、ただそう「設計」されていると考えるほうが正しい。白い雑巾を差し出しても攻撃してこないので、黒い物体をぶらさげて一定の速度で進んでいると攻撃するようにプログラミングされているのだ。

それぞれが別の知覚世界に生きていることは人間にも当てはまり、たとえば幼児が、塔の上にいる人間を小さな人形だと思って、おかあさんに取ってという例などが紹介されている。

つまり、客観的な外部環境などというものは存在せず、個々の生物によって、別々の外的世界が多様に存在しているのだという。訳者は、それを「環境」とは対立的な「環世界」という語にしている。空間認識はもちろん、時間の進み方まで違っている。

 * * *

なるほどなあ。

で、思いついたのが、麻雀のカラー企画。題して「麻雀打ちのレベル別環世界」。同じ卓上であっても、その人のレベルによって、見えているポイントは違っているから、それを同じ写真で、写真の一部を明るくしたり暗くしたり加工して別の画像にする。「初級者に見えている卓」と「上級者に見えている卓」に。

実際、麻雀がある程度うまくなったら、実戦中に場の状況なしで打牌を考えることってほとんどない。ある程度以上のレベルになれば、他人の捨牌まで含めてひとつの世界だ。

でも、キンマ読者の多くにとってはそうではない。手牌13枚が世界なのだ。だから、場の状況まで含めた打牌選択の記事は人気がイマイチとなる。情報が多すぎるのだ。

そんな理由から、ぼくも苦しさを感じながら13枚だけで語れることを選び、戦術を考える。それが仕事だ。13枚だけじゃなんとも言えないから場の状況まで考えなさいよと説教するのは、ラブレターの書き方で悩んでいる人に愛撫テクも使いなさいよと説教するよーなもんだろう(ちょっと違う?)。麻雀打ちの「環世界」は、ふたつに分かれると思う。

さて、この企画、採用されるかどーか? されないだろーなw

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2006年7月28日 (金)

【麻雀】サシウマばばあ

ぼくがまだ若くて雀荘で働いていた時分のこと、客の一人に、みんなからサイババと呼ばれているオバハンがいた。西城ばあさんだからサイババだ。

麻雀は下手くそで、負けてばかり。負け始めるとすぐ場換えを要求するヤツだった。フリー雀荘には負けて席のせいにする客が多いけど、卓の向いている方角のせいにしたのは彼女くらいだと思う。

歳は60代くらい。どっかの金持ちの愛人で、秋葉原あたりの雀荘を経営しているという話だった。サイババのどこに金持ちをつかまえる魅力があり、どこに雀荘を経営する才覚があるのか見当もつかなかったけど、若い頃は美人だったと言われれば、そんな気もしないではなかった。

ぼくと彼女の付き合いは5年くらい。もちろん麻雀するだけの関係だった。よくサシウマもした。その店では客だけでなく従業員もサシウマするのが普通で、ぼくはサシウマOKの客とはほぼ全員とやっていた。

彼女にトータルでは負け越していないはずだけど、1日単位では負けることもよくあった。そんなときは、こんなオカルト婆さんに負けるとは、俺はなんて弱いんだ!と、すごくみじめな気持ちになったもんだ。彼女と少し大きなサシウマを行き、ずっと不調のまま盛り返せず、結局4万ほど負けた朝には、心の底から死にたくなった。


数年たち、ぼくが雀荘メンバーの足を洗って出版社に勤め、その出版社も辞めて、これからどうしようかと考えていた時期のこと、近所の別の雀荘に行った。ぼくが働いていた雀荘はメンツがきつかったので、その頃は別のヌルイ雀荘に行くことが多かった。

すると驚いたことに、迎えてくれた女性従業員がサイババだった。

「いらっしゃいませ。お飲み物は何になさいますか?」

当たり前のように挨拶され、ぼくはものすごくびっくりした。それでも、知り合いだというのに知り合いらしい顔もしない彼女に、なぜこの店で働いているのか口に出して聞くことはできなかった。博打場ではよくある光景なのかもしれない。でも、実際にそんな現場に居合わせるとやはりビックリする。

夜遅くなってサイババと麻雀も打った。かつては何かと文句ばかり言っていたのに、そこではちゃんと従業員の麻雀を打っていた。それまたビックリだった。普通の麻雀を打つこともできたのか。客打ちと仕事打ちは別物。水商売のヤツほど客としてはわがままになる。そんな生きた実例のようだった。

その店を出てから、ぼくはすぐかつて働いていた雀荘に行った。彼女の身の上について聞き込みするためだ。

「いま白檀に行ってきたんだけどさ、サイババがメンバーやってんだよ。なんだありゃ?」

その質問には店長が答えてくれた。

「俺も詳しいことは知らないけどさ、店がダメになってパトロンにも捨てられたらしいよ。藤峰さんあたりなら詳しいこと知ってんじゃねーか」

ぼくはそれ以上の聞き込みはしなかった。まもなく、サイババは白檀からも姿を消した。マスターに聞けば行き先について何か教えてくれたかもしれないけど、悪趣味な気がしてそれは聞かなかった。

ああいう人って、年とったときはどうやって暮らしているんだろう。そんな漠然とした疑問はあるけれど、彼らは雀荘の人間関係から離れてしまうため、そのリアルな実例は見ることができない。今でもどこかで麻雀を打っているんだろうか? また打ちたいかと言われたら打ちたくないけどね。

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2006年7月27日 (木)

【麻雀】場末の雀荘

酒を飲んで終電1本前で帰ってきた。最寄り駅から家に向かう途中、ふと闘争心がわきあがってフリー雀荘に。

そこは典型的な繁華街のピン雀で、夜は水商売の人ばかり。同卓したのは中国人ネーちゃん2人とおっちゃん2人(途中で交代があったから計4人)。

中国人ネーちゃんは、一人は初級レベルだったが、一人はびっくりするほどうまかった。「うまいね」というと、「ありがと」と変なイントネーションでいう。精算→場代の払い方も、こっちが思いもつかないやり方をしてきたり、もともと頭がいいってことですかね。

途中でおっちゃんがメンバーに難癖つけていた。

「おめーよぉ、俺は昨日からずっとラスばかりなんだぞ! それでイライラしてるときによぉ、そんな言い方されたらどうかって、おめーだってわかるだろーよ! ああ~?」

きっかけは聞いてなかったけど、そこにいた善良そうなメンバーが変なこと言うとは思えないし、きっとどーでもいいことだろう。こんな環境でマジに麻雀してたら、そりゃ何年かに1回くらいは殴られるだろーよ。

メンバーが女房子どもに出て行かれちゃった話が聞けたりして、こういう店の方が人間ドラマは面白い。んでまた、そういう気の毒な人が同僚からいじめられてたりして、人間社会の縮図が見れたりする。仲間内で外されてる人は客に救いを求めるから、サービスしてくれたりするんだよな。

水割りを飲みながら3回ほど打ち、イマイチつかなくて6600円負け。ピンの1-3東南戦って、めったにやらないんだよな。東南戦だったら点5の方が、まともな麻雀になる。だから、この店には2年に1回くらいしか行かない。今回は経営も変わっていて、知ってる顔はその善良そうなメンバーしかいなかった。

てなわけで、酒を飲んだあとにまた酒を飲みながら麻雀。そうなると家に帰っても仕事とはいかず、やはり寝てしまう。こうしてまたも仕事を遅らせているのだった。人生ってもんは、こうやって過ぎていくのだろーか?

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2006年7月26日 (水)

【教育】子どもへの願い

自分の子どもはこう育てたい。そんな何かしらの願いを、親になった人はたいてい持っていることだろう。「教育」というよりも「子育て」だ。

こういう願いにはプラス面もマイナス面もある。他人だったらマイナスが大きかったら切ってしまえばいいが、親子だとそうもいかない。それでも、プラスもマイナスもひっくるめた関わり全体が、親と子の関係なのだと思う。

ぼくは、親が勝手な願いを持つことにマイナス面のほうを強く感じていたので、この点では禁欲的だった。いや、そう思うのは後づけで、ただ単に熱心な親じゃなかった。

それでもいくつかはあって、そのひとつが「異年齢の人と当たり前のように付き合えるようになってほしい」ということだった。

日本人は若くなればなるほど同年齢で固まる傾向は強くなっていて、少しでも年が離れた人とは付き合えなくなっている。いや、そう思うのは印象にすぎず、大家族制が解体されてからは一緒なのかもしれない。ぼく自身が異年齢の人と付き合うのが下手だから、こんなことを思うようになった気がする。

こんな願いを持っていたから、子どもが異年齢の人と接するよう、あちこち連れ出せばよかったのだが、現実にはまったくそうしなかった。自分1人ですぐ雀荘に行ってしまうダメ親だった。それでも、この点に関しては不思議と願い通りになってくれた。

昨日、娘1号が市民オペラの練習に行ってきた。1回目だ。中学の合唱部によく不満を言ってるので、それなら市民オペラに参加してみろとすすめたのだ。高校生以上が条件だから、年齢も1歳詐称させた。どうせ暇でネットゲームばかりしているからね。

帰ってきたところで聞いてみたら、男性は全員がおじいちゃん、女性も圧倒的におばあちゃんだという。30~40代がわずかにいて、10代や20代などまったくいないようだ。

そんな環境でもケロッとして、それはそれでいいかと思っているらしい娘1号。頼もしいけど、こういうところが逆に同年代の友だちができにくい部分でもあるんだろう。

この市民オペラでは、プッチーニをイタリア語で歌う。本番は半年後。歌自体はどうなのか、指導者はどうなのか、そういう部分はまだわからないけど、とりあえずジジババ軍団に混じってスタートしたのだった。

こうして、ギャルがどんどんギャル路線を歩むように、ババ臭い娘1号はますますババ臭くなっていく。それでいいよな。

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2006年7月25日 (火)

【教育】日本の向かうべき方向

ぼくの本『教育格差絶望社会』では、自分なりの解答を示していない。これから日本の教育がどちらに向かうべきなのか何も書いていないのだ。これは単純な「教育」よりも「教育格差」を主題にしたからだし、現実性のない提言は今起きている現実に対して説得力を失うだけだと考えたからでもある。

それでは、どちらに向かうべきなのか。それは脱「競争」化しかないだろう。節目を受験という競争で区切ったシステムから脱出するべきなのだと思う。

教育には、子どもに知識を身に付けさせるプラスの面と、子どもを選別するマイナスの側面がある。どちらが本来の教育かといえば前者だが、日本の社会システムとしては後者が強い。これは多くの親が、わが子が勉強している内容には興味を持たなくとも、子どもの進む学校名にはすごく熱意を持つことに表れている。親は、社会経験によって「正解」を知っているのだ。

これまで日本社会は、教育を選別の道具に使いすぎたんじゃないか。子どもの人数が減る局面に入って、選別―競争システムが有効に働かなくなっても、旧制度を引きずっていることが、負の遺産となりつつある。

どのようにして、この競争システムはできたのか。企業の人事部が大きな影響を与えてきたことは間違いないが、それだけない。地域社会が全体としてそれを望んできたように思える。

昭和30年代から高校進学率が急上昇するとともに、進学する高校名によって、その子の格付けがなされるシステムがあっという間にできていった。このシステムは、農業科、商業科、工業科などの職業科が不人気になり、普通科の一人勝ち状態になって、ますます一元的になっていった。今でも地方ではこの価値観がものすごく強い。

しかし、子どもの人数が減るに及んでは、競争はさほど有効に機能しない。また、工業の時代が終わってポスト工業と時代になり、これからは知識が重要な資産になるから、その知識を空洞化させるような受験システムはマイナスでしかない。

これまでのシステムでは、偏差値システムの頂点に立つ者よりも、途中で偏差値システムを抜け出してしまった者のほうが、学ぶ楽しみに近いことは珍しくなかった。知る楽しみを味わっているようでは効率が上がらないから、テスト主義は知る楽しみを失わせるのだ。子どもがポケモンの名前をあっという間に覚えてしまうように、本来、知ることは楽しいことだ。偏差値システムは、知る楽しみを捨てさせることで機械的労働者に仕立て上げる制度であり、偏差値強者は知る喜びから遠いところにいる。

でも、好きなポケモンの名前を覚えるのって勉強なの? たとえ楽しい知識じゃなくても、必要なことを身につけることが勉強なんじゃないの? そんな疑問がわくだろう。そう、ぼく自身そんな疑問を捨てられない。やはり競争の教育の中で育ってきた者には、非競争の教育はイメージできない。どうしても総論賛成、各論反対になってしまう。

非競争教育の成功例としてフィンランドの実例もすでにある。だから、そちらへの移行はやればできる変革のはずだが、年配者が実権を持っている日本では、そちらに動き出す気配はない。今の50~60代は、世の中のルールが変わってしまい、自分たちの時代は終わってしまった現実を直視することが怖くて怖くてしょうがないから、心の深いところに結びついている教育ルールを変えることに賛成するはずもない。

最近、『変えよう! 日本の学校システム 教育に競争はいらない』という本を読んだ。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4582824471/
教育委員会はどのような歴史的経緯からできたもので、どうして実質的に空洞化されたのかなど、じつにわかりやすく書かれていて、ものすごく勉強になった。著者は塾の先生で、教育にとって競争はマイナスでしかないことが体験的に解かれている。すばらしい本だ。

日本の教育が向かうべき方向は、全体が丸ごと脱競争化することだと思う。だが現実は、金にゆとりある層がよりハードな競争に走り出しており、残りの大半が無競争化する方向に向かっている。まさにアメリカ型であり、これだと将来は暗いんじゃないか。世界は知識社会に向かうというのに、このままいくと大半の子どもは知識の楽しみから疎外された10代を送ることになってしまう。のんびりと自然にいこう。それが教育の世界でも正解になる時代になったのだ。

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2006年7月24日 (月)

【麻雀】雀荘に堕ちてきた人2

家からそう遠くない繁華街のフリー雀荘にぶらっと入った。ピンの東風戦。初めて入る店。うらぶれた雰囲気。少ない客数。もう長くないんじゃないかと思わせる。まあ、どこの雀荘に入ったって同じようなもんだけどね。

年配のメンバーが飲み物を持ってきてルール説明してくれる。麻雀が始まってからわかってきたのだが、この年配メンバーは新人らしく、みんなから露骨にいじめられていた。一番年長の者が馬鹿にされている。しかも、店長が率先していびっているんだから逃げ場がない。

その年配メンバーは、ちょっと人が良さそうで、ちょっとトロイ感じ。たしかにいじめられるタイプだった。彼は麻雀もイマイチだったが、おそらくフリー雀荘の経験がないのだろう。無理もない。社内麻雀で勝ち組だったくらいではこんなもんだ。彼はアガっても振り込んでも、かならずといっていいほど嫌味を言われていた。

何時間か過ぎたとき、店長が衝撃的な嫌味を言った。

「お前な、そんなだから女房や娘に逃げられるんだぞ」

別のメンバーが続けていう。

「ホントは女房も子どももいなくなって、気楽になってよかったと思ってるんじゃないのか?」

これにはさすがの彼も傷ついたようで、少しモゴモゴと口ごもりながら、それでも返事した。

「いや、そんなことないですよ。あたしゃ悲しいですよ」

どういうことなんだろう。彼は仕事を首になり、仕事が見つからないまま、やったこともない雀荘のメンバーになったけど、そんな彼に愛想をつかして妻や子どもは出ていってしまったのだろうか。

いきなり現れた美味しいドラマに、みんなの尻馬に乗る気はなかったぼくも魅入られてしまった。だが、この場ではこれ以上は聞けそうもない。もっと親身になって二人で聞けるような状況じゃないと。

「また来てください。お待ちしてますから」

朝になって麻雀をやめたとき、彼は言った。店内でいじめられてる者は店外に救いを求めるんだよな。

彼の家族ドラマにはすごくそそられたけど、その店にはさして興味がなかった。そうこうしているうちに何ヵ月か経ってしまい、彼のドラマを聞くチャンスは永遠に失われてしまった。その仕事が何ヵ月も続いているはずないからね。雀荘に堕ちてきた人は、そこにとどまらず、また別の業種に流れて行く。堕ちてきた人が生暖かく過ごせるような場所じゃない。

女房と娘は帰ってきたんだろうか。くるわけないよな。ぼくの女房や娘が出て行く日もいつか訪れるんだろうか?

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2006年7月23日 (日)

【麻雀】科学的思考

高校でやらされた勉強の中で、一番役に立ったと思うのって数学と物理だった。ただし物理は、閉じた系ではすべての運動が説明できるってのがすごいと思った程度。つまり数学で代表させていい。

じゃあ数学がどう役に立ったのか。それは、何かについて考えなきゃいけないときは、こうやって考えなさいよという論理的思考のモデルですね。そんなレベル高い話じゃなくて、まず条件によって場合分けしなきゃいけないし、一歩一歩推論を進めていかなきゃいけない。それくらいのこと。何を考えるのだってそうだよね。

なので、数学が得意な人、あるいは苦手じゃない人が、数学を思考ツールとしては考えていないらしいことがすごく不思議だった。

高校の数学といったら、世の9割の人は嫌な思い出しかない。嫌いな人にとっては、いくらやらされたって役立つことはないだろう。それは理解できる。でも、嫌いじゃなかったはずの人たちも、数学を役立ててモノを考えている節はないのだった。

たとえば麻雀について、なぜ立派な理系の人たちが、いざ麻雀の話になると、とんでもないことしか言わなくなっちゃうのか。それがすごく不思議だった。とんでもない公理が鬼のよーに飛びかってないか?

こんなこと書くと、ぼくはすごく数学ができたようだけど、んなことはない。文系の受験レベル。大学には理系のダチもいっぱいいたけど、まるで会話についていけなかった。

ぼくが高校までにやった数学や物理って、ニュートンくらいまで。つまり17世紀だ。そんな17世紀人のぼくは、アインシュタインだのファインマンだのって20世紀もんを意識してる連中とは、話すらできなかった。文系のダチとアキレスと亀のパラドックスについて議論したって話をしたら、理系のダチに呆れられたりした。まーそーだろーな。

『大学への数学』という、受験数学では権威の雑誌があって、ぼくのダチがその雑誌を出している出版社で働いている。何年か前、彼に頼まれて、数学ってのは思考モデルなんじゃないかって話を『高校への数学』の巻頭言に書いたことがある。

そのときのやり取りから、ぼくの考え方は必ずしも一般的じゃないことが感じられた。というよりも、どっちかって少数派のようだった。数学にひっついた生活を送っている人にとって、数学は数学以外のもんじゃないらしい。

ぼくの父親は高校の数学の教師で、数学に関してはよく勉強してて立派だと思うけど(こーゆー教師って少ないよね)、さてその思考法で他のことを考えたら…となると、頭がウニになるようだ。やはり数学は数学でしかないのであって、数学をやってりゃ思考が論理的になるってもんじゃないらしい。

つまり何が言いたいのか? 麻雀の話になるんだけど、麻雀ってのは数字を組み合わせるゲームであって、閉じた系ですよ。1局ごとに組み合わせを作っていき、それが極に達したら、また攪拌してやり直し。それを繰り返す。そういうゲームです。使う牌はたった136枚だから大自然に例えるような複雑なもんじゃないし、そこで起きてるのはけっこう単純な現象だ。数学的に扱えないはずがない。

それなのに、以前は数学的アプローチって言ったら、単純な枚数計算とアガリ点の期待値計算しかなかった。数学つーより計算だよね。この業界に高2以上の理系はなぜいないんだ? ホント疑問だった。

それが21世紀になったころから、とつげき東北先生の功績がでかいと思うけど、新しい道が開け、それが今では彼だけではなくなっている。さっき、数学や物理って要は思考でしょってブログを読み、その内容はよくわからないんだけど、その趣旨に共感するとともに、ああ時代は変わったなーと感じてしまった。

ホント良かったよ。あらゆる分野が進歩してる時代に、そうじゃなきゃ恥かしいって。ぼくが言うのもアレだけど、麻雀の本が売れないのは、レベルが低すぎるって理由も大きいと思う。現にとつげき先生の本は売れたわけだし、読んで役立つならみんな読むって。役に立たないから買わないんだ。

麻雀戦術の科学的進歩に、自分はロクに貢献しなかったなーと恥かしく思うけど、んなこと書いていると、すでに御隠居ですかね?

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2006年7月22日 (土)

【つぶ】オヤジの門

自分には、ふてぶてしさが足りない。ずっとそう思っている。男の人生って、ふてぶてしさをガソリンに生きていくもんらしい。その燃料が足りないよ。そう思っている。

ただ、これは主観的な思いなので、多くの人からは「あんた十分ふてぶてしいから!」といわれそうな気がする。でも、ちょっと違うんだよな。自分はこういうふうにしか生きられないからしゃーねーじゃんと思うのと、これって素晴らしい人生ですよと思ってるのはかなり違う。

自分が自分であることへの開き直り。生まれながらの身分なき現代社会では、これがあるかないかで人生がまるっきり違う。

神よ、われにふてぶてしさを! そう思いながらも、ぶっといオヤジへの道をもう一歩踏み出せずに早幾年。

オヤジとかオバサンになることを恐れさせる価値観に塗りつぶされた今、臆せずオヤジやオバサンの門をくぐった者だけが幸せに生きるのかもしれない。

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2006年7月21日 (金)

【つぶ】文章という迷宮

仕事で文章を書くようになって10年以上たってるけど、“文章とはなんぞや”ってことについて、謎は深まるばかり。他人に何を伝えられて、何を伝えられないのか、いつまでたってもわからない。情や心ってどれくらい伝わるものなんだろう?

ライターになって最初の数年間で一番書いたのは情報誌の文章だった。これは必要なことをわかりやすく伝えるのがすべて。そんなに難しいもんじゃなかった。

難しかったのは麻雀の観戦記などだった。そこには価値観があり、心があった。自分の感じたことを正確に書こうとすればするほど、逆に伝わらなくなってしまう。そんな感じがした。

読者アンケートは常に最低ランクだった。編集部は、人気が取れる内容じゃないから、そんなことは気にしないという態度だったけど、自分では納得していなかった。というのも、編集部の信頼などには興味なくて、ほしいのはただ人気と実力と金だった。

何の因果か麻雀病にとりつかれ、それが治らないからこうして麻雀の原稿など書いてるけど、さっさと技術を磨いてもっと広い世界に行って稼がないと家族もろとも飢え死にしちまうぜ、そう思っていた。ぼくの中で麻雀の原稿書きは、浪人が通う予備校みたいなものだった。病気が治ったらさっさと卒業するのだ。

さて、その実力はというと、まるで上達の兆しはなかった。アンケートの順位はいつまでたっても手ごたえゼロ。いくら頭を絞っても、努力が人気の向上に結びつきそうな気はしなかった。この雑誌は俺にとっては下げマンなんだな、どーせ予備校だし、卒業して場をリセットすれば運も変わるだろう、そう思ったりした。

本業として他の編集仕事をやり、副業として麻雀の原稿も書く。そんなスタイルはしばらく安定していたが、その後、情報誌の仕事をやめて、しばらくして別の編集部に入った。するとそこの仕事はロシアの拷問みたいなもんで、次から次へと方針変更の嵐。気を持ち直して新しい方針を固めた頃にまたリセット。真面目に取り組もうとするほど、気が狂いそうになった。金の点では不満なかったけど、金がすべてじゃないとつくづく思った。

それまで、麻雀の原稿書きでは、金の不満はあっても、やりがいの不満はなかった。そして編集部のプリミティブな誠実さというのも、振り返ってみたら貴重なものだった。ぼくの麻雀病はちっとも治っていなかったため、ぼくは麻雀の原稿書きにますます気合いを入れ、昼はリセット編集部、夜は麻雀の原稿書きで、睡眠時間を削る生活だった。

ハードな生活だったけど、夜の仕事があることは本当にありがたかった。フリーランスでいろんな仕事を流れ歩いていると、自分は何をやってる人間なのか自分でもわからなくなってくる。「ぼくは麻雀ライターなんですよ」と思えることには救われた。

そのうちに麻雀の原稿書きの仕事が増えてゆき、リセット編集部が解散になったあと数年間はそれが本業になった。

ぼくが評価された理由は、企画力とか知識量とか作業の細かさとかそういったものだったと思うけど、そのころ文章をいかに書くかということでも、いくつか法則を発見していた。そのひとつはマジになりすぎるなということ。むしろ嘘つきでいい。

話を聞いてもらうには話術が必要だ。これはわかる。でも、文章を読んでもらうには嘘も必要だ。これは納得いかない。納得いかないけど、その法則が存在していることは確かなのだった。そして「汚れちまった悲しみに…」という詩を思い出しながら今日も嘘を書く。

こっちにとっては仕事だからマジになってしまいがちだけど、読む側にとっては一瞬の娯楽にすぎない。気合をぶつけちゃいけないんだよね。その一方で、心のこもってないものは面白くないから、ただ嘘だけでは読むに値しない。

たぶん恋愛と同じようなもんなんだろう。「おたがいの人生をかけてお話がありますっ!」と言われたら相手はビビルだろうし、ちゃらいことしか言わなかったら相手の心は動かない。

そんなわけで、こういう小手先のテクは身についても、文章についての根源的な理解はさっぱり。いい文章とはどういうものかわからないまま、今日も暗闇の中を歩くのだ。

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2006年7月20日 (木)

【つぶ】恋愛社会は異常

ぼくが高校生くらいのとき、恋愛小説の最高峰とされていたのは、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』でした。

これ、どーゆー話かというと、ウェルテルとゆー婚約者持ちの男が、ロッテとゆーこれまた婚約者持ちの女に恋をしてしまうのだが、ロッテの婚約者は人格者だし、自分には自分の婚約者がいるわけだし、ああ俺ってなんて罪深い男なんだと悩んで、自殺しちまうってストーリー。

どーすか? 馬鹿じゃんと思いません?

だってさ、自分の婚約者を捨ててロッテに迫ったっていいし、諦めたっていいし、コソコソ密通したっていい。いずれにしろ自殺までせんでもって思うのが普通じゃない?

恋愛小説って無茶するヤツじゃないと盛り上がらないから、これはこれでいいのかもしれませんが、じつは『若ウェ』は最高峰と呼ばれるだけあって当時の社会を反映してもいたんですね。

ウェルテルってのは、高い教育を受けた優秀なヤツ。しかし、その成果を発揮する場所がない。貴族の次男坊かなんかで、今でいう金持ちニート君です。お隣のフランスでは、革命が起きたりしてて活躍の場がありそう。しかし彼が住むドイツは遅れてて、やりがいのあることは何もないわけです。 焦りを感じるウェルテル。

だから、教育の成果を活かせるのはラブレターを書くことくらいになっちゃって、俺なんて社会に居場所のない人間だと思ってるから、ちょっと不義をやりそうになっただけで自殺までしちゃいます。

ここから得られる教訓は、暇な人間は恋愛に突っ走るってこと。

そもそも恋愛って生死や繁殖に関係なく、よくいえば生きがいだけど、悪くいえば娯楽の一種。人類の生存に、愛は必要でも恋は必要ないんです。

世界最古の恋愛小説とされる『源氏物語』にしても、当時の貴族は暇すぎて、スケベなことでも考えないと時間を潰せないって状況でした。またフランス文学では、愛は12世紀の発明とされていて、王妃と貴族の恋から始まってるんですね。王様と王妃は家柄のみで結婚。王妃は子どもを産んで暇になってから、他の男と恋を始めます。そもそもは不倫なんですよ。

そんなわけで、暇じゃないと恋はできないし、暇すぎると恋に突っ走りやすい。そんなことがいえるわけです。

いま一億総恋愛社会みたいになってますけど、これは人類が暇になったから生まれた状況です。チョコ会社がバレンタインデーを推進するように、各種メディアが煽った結果、恋愛社会化が進んだだけ。恋愛がないと人生さびしいだなんて単なる幻想なんですね。

なんでこんなこと書いてるかというと、最近、知り合いが元彼の横暴に悩んでて、その状況を見ていると、俺にはこれっきゃないと思い込むタイプは危ないなーと改めて思うわけです。ウェルテル化しちゃいます。それが自殺に向かえばいいですけど、他人に向かうとストーカーになる。

恋愛ってそこまで根源的なもんじゃないですよ。かわりに麻雀にでも打ち込むか、んじゃなきゃ犬でも飼いましょう。

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2006年7月19日 (水)

【教育】学力ゲーム

ふと思いついて、『教育格差絶望社会』という題名で検索してみた。すると、ある人が、わかるなーという批判をしていた。こんな内容。

この本では、教育といっては学力がどーのこーのって内容ばかり扱ってるけど、古いんじゃないかね。勉強がどうたらなんて社会に出たら関係ないわけで、こんなことばかり問題にするの、もう止めにしたら?

と、そんな感じ。

すごくもっともな意見だけど、現実はそう簡単でもないので、この批判に答える形で説明してみよう。

学校で教わる内容というのは、小学校では「読み書きソロバン」という言葉に示されるように、その後の社会生活の基礎としてかなり重要だ。それが中学になると、グッと抽象度が上がって生活から離れる。そんなの必要ないということもできるが、中学の段階ではまだ、あらゆる知識の基盤ということもできる。

それが高校になると、習う知識が実際に役立つと思う人はまずいないだろう。生活から遠く離れているし、内容もかなり難しい。中学で学ぶ科目を全部理解してる人はざらにいるが、高校の科目を全部マスターしている人はまずいない。

そういった知識はなぜ必要なのか? 以前、曽野綾子が「私は二次方程式を大人になってから一度も使ったことがない」と言って論争になった。2002年から、中学の理科ではイオンを教わらないことになったけど、実生活で困るかといったら、まったく困らない。誰だって、イオンなんて見たことがない。それではイオンは必要じゃないのか?

日本では中学終了まで、誰もが同じ内容を学ぶことになっている(この制度が急速に崩れつつあることが、ぼくの本のテーマだ)。イオンは、生活には関係ないのだが、将来理系に進む人にとっては基礎中の基礎だ。それくらいは中学でやってもらわないと困る。誰もが将来どの方向に進もうとしても困らないことを制度として保証するため、その後の基礎となる内容を全員が学ぶことになっているのだ。この平等主義が日本の特徴で、たとえばドイツのように、小6の段階で、将来の進路別に子どもを振り分けてしまう制度も考えられる。だが、そうすると結局は社会が荒れちゃう。ドイツの状況もかなりやばそう。

さて、上の批判は、こういった「何のために勉強するの?」という問題を言いたいわけじゃないだろう。中学や高校でやる勉強やテストなんて、お約束の学力ゲームにすぎない。トレーニングして、いいスコアを取れたら、いい学歴が手に入るけど、そんなのは社会で生きていく力とは関係ないし、就職するときに役立つくらいで、その後はたいして関係ないじゃんよ、ということだと思う(こういう意見は30~40代に多い)。

高校入試や大学入試が、お約束のゲームにすぎないのは本当にその通り。ゲームへの適性、要領の良さ、努力、その3つの要素で決まると思う。知性とか、そういう大袈裟なものはあまり関係ない(ここらへん、50代以上はそう思ってない人が多い、勉強=知性という図式が昔はあった)。

だが、現実の中学・高校は、そのゲームで高得点を取れる人を優遇する。駄目な人をどんどん出席停止にするようなことはないけど、かなり扱いが違うことは確かだ。その結果、最近では、勉強できる子のほうが、勉強できない子より、スポーツも趣味も交友すら活発だという結果が出ている。昔は、ガリ勉は青白くてスポーツなんか駄目だとされていたが、今では勉強できる子はスポーツもできるし、何かと積極的で、性格までいいとされているのだ。

この変化は、勉強できる子を優遇し勉強できない子を冷遇するという学校の収容所機能が増しているからだろう。学校というのは、プラス面から見れば知識を教えてくれるところだが、マイナス面から見れば子どもを野放しにしないための収容施設だ。そこでの扱いが違えば、本人の自信のありようも変わってくる。最近では「意欲格差」とか「希望格差」といわれるのは、勉強できることが、心の持ちようにまで直結するようになってきているからだ。

なぜ、勉強できないと、意欲や希望まで失うことになるのか? まず大きいのは、学校からドロップアウトしても、叩き上げていける職人ルートがほぼ消滅してしまったこと。昔は中卒でも、バイクの整備工場に勤めて、しっかりやっていくようなルートがあったが、今ではそういう道はほぼなくなってしまった。ドイツのマイスター制度すら危機に瀕しているくらいで、これは先進国に共通する現象だ。

そして日本独自の現象として、自営業の具合が悪い。バブルを境に、自営業を開業する数と廃業する数が逆転し、その後15年以上も自営業は減り続けている。自営というのは、勤め人としては駄目だったとしても、一国一城の主となれる一発逆転の道だ。なぜか日本ではその道が狭まる一方なのだ。チャラチャラした起業ブームもあるけど、実際に開業して生き残れる率は一説によると1500人に1人とか(ちょっと極端な数字だ)。一発逆転の道がどんどん厳しくなっている以上、普通の人だったらどこかに勤めようと思うわけで、そうなると学歴も無視できない。

だから、「お約束の学力ゲームなんてやめようぜ」という主張は正しいけれども、現実はそういうものでもない。不登校も増えているしバイトの口もいっぱいあるから、勉強から逃げ出すのは容易になっているけれども、進学ルートを外れた場合のルートがフリーター以外に見出されているわけではない。

むしろ昔にくらべて大人が勉強する必要性ははるかに増していて、勉強する能力の重要性は上がっている。パソコンだって携帯だって普及したのはこの10年で、社会の変化は早くなっており、若いうちに資格を取ったらあとは楽にやっていけるなんて仕事など、どこにもなくなってしまった。弁護士ですら、今はなったあとでも勉強ばかりだ。そんな生涯学習社会があるから、『プレジデントファミリー』などという中学受験雑誌が20万部も売れていたりする。

この問題の底には、日本の遅れがある。最近では「学歴」の時代から「学力」の時代へ移っていると言われたりするが、その「学力」の定義が日本では遅れている。正解のあることを問う、というお約束が厳然と存在している。しかし、たいがいのことには正解なんてないわけで、どの分野であっても、大学に入ると、正解なんてないことにして、もう一度体系を組み立てなおす。もちろん、1+1=2であることは変わらないが、理系の仕事だって、正解のあることを勉強するのとは違って、もっと試行錯誤的なものだ。

つまり日本では、小中高で勉強する内容も受験システムも時代遅れになっている。しかしこれまでのシステムがあまりにも強固にできているため、今でもお約束の学力ゲームが続き、そんなの無意味じゃんという意見が出てくることになるし、多くの子どもを勉強嫌いに陥らせている。それが現状というわけ。

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2006年7月18日 (火)

【麻雀】流れ派とデジ派の恋は可能か!?

「恋におちた経済学者」という小説を持っている。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4535552975/

市場原理主義者の♂と、福祉国家主義者の♀によるロマンスの物語。恋に落ちたはいいけど、考え方はまるで正反対。さて、二人の恋の行方は!?ってな感じ。読んでないけど、違和感ありまくりのラブストーリーらしい。

ぼくが興味あるのは、麻雀の「流れ派とデジ派の恋は可能か!?」ってテーマ。

麻雀プロで見てみると、女性はほぼ全員が流れ派なんじゃないか。じゃあ、その女性プロと付き合ってる男はどーなのよというと(知ってる事例は少ないんだが)、なんと全員が流れ派みたい。

てことは何かい? デジ派は女にモテないと?

強引にいうなら、実績を出してるのは流れ派、情熱を語ってかっこいいのも流れ派、他分野の人と話が合うのも流れ派、そして女性モテ度でも流れ派だ。

じゃあデジ派が勝てる点はないのかよってことになるけど、思いつくのは、口の達者さくらいか。

デジタルってつらいね。流れ派とデジ派の恋は不可能なのか? 求む成功例!

そういえば、最強戦で優勝した太郎は、骨の髄からデジタルでありながら、麻雀プロのかわいい嫁さんをゲットしてたな。問題は、彼女が流れ派かどーかってことだ。

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2006年7月17日 (月)

【つぶ】やればわかる?

近所の歌舞伎町【風】の雀荘。

従業員のおっさん達とはすでに馴染みで、打ってる最中はいつもあげまんさげまんとかエロ話のオンパレード。オヤジ1号が、愛のないセックスに命をかけてると広言。

昨日もそんな話ばっかで、すげーなーと思ったのがこんな話。

オヤジ2号「山ちゃんさ、やってみてから、あ、この女とは以前やったなって気づいたことある?」

オヤジ1号「見てもわかんないほど整形してたってことか。うーん、あったかなー」

この話にびっくりして、ぼくが質問。

ぼく「えっ、顔を見ても、しゃべってもわかんないのに、やってみるとわかるもんなんすか?(;゚д゚) 」

オヤジ2号「俺は1回だけそーゆーことありましたね」

ぼく「そんなに一人ひとり違うもんなんすか?(;゚д゚) 」

オヤジ2号「そりゃあ全然違いますよ」

ぼく「わかるもんだと?(;゚д゚) 」

オヤジ2号「ああ、絶対にわかりますね」

見た目は関係なく、一度やった味はすべて覚えているというオヤジ2号。そ、そーゆーもんなの? 何十人何百人の経験があるんだかわからんけど、これにはすごいと思ったね。

その執念つーか気合は見当もつかん。そこまで味わってくれるんなら、女も本望だよなきっと!(…なのか?)

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2006年7月16日 (日)

【麻雀】打ち手意識

王位戦が終わり、ネットでそのレポートなどを読んでいるうちに不思議と沈んでくる心。

ん? なぜ沈むんだ? すぐには理由がわからず、しばらく考える。 とくにブルーになったのが、優勝者・多井隆晴さんを語ったこんな文章。

 * * *

予選から見てて印象的だったのが、とにかく振込みが少ない。
(一見)強い牌を通しても、アタリ牌は的確に抑えます。
で他家が高い手を張ると、すかさず脇へ1000点差し込み。
スーパープレイを何度となく見せられました。
いやー実際にこんな読みができる人がいるとは、正直驚きました(嘆息)。

 * * *

なぜ俺はこんなことで凹むんだろう?  自分の心をしばらく探っているうちに、だんだん理由が見えてくる。そーか、俺はこいつには勝てないなと思って、それでブルーな気分になってたのか。ってことは、現役の打ち手意識を持ってるってことじゃないか。思ってもいなかった打ち手意識を自分の中に発見してしまう。

ぼくは自分のことを現役の打ち手と思ったことってない。いや、もちろん麻雀はよく打ってますよ。つまりプロ意識ってことです。

俺は生涯、草雀士でいい。ギャラをもらって人前で打ったりする気はない。麻雀は単なる遊びだ。30歳のときにそんな見切りをつけ、それ以来、遊び以上の麻雀、つまり真剣勝負をしようと思ったことはなかった。だからタイトル戦などにも参加しないんだよな。

20代後半に3~4年、麻雀が強くなることしか考えない生活を送り、そのあと生ぬるい会社員をやってから、そんな風にスパッと割り切っていた。

ひとつのことに3~4年も打ち込むと、自分の器ってもんがある程度は見えてくる。ああ、俺のことそんなに才能豊かには生んではくれなかったんだね、お母ちゃんって感じ。

雀荘バイト時代、ぼくはけっこう努力家だった。デジタル流行りの昨今ではよく見かけるけど、当時は成績を百円単位まできっちりつけてるヤツなんて自分以外に見たことなかった。

同僚メンバーたちはみんな累積債務がマイナス数十万あって、ずっと無給。麻雀好きの学生だからできる生活。そんな中にあって、ぼくはずっと給料をほぼ全額もらい続けていた。

その差は何か? 雀力じゃなかった。ただ姿勢と意志の差だった。

ドラクエを買った直後でもかならず6時間以上は寝るとか、出勤の1時間前には起きるとか、風邪をひかないように気をつけるとか、麻雀の最中はなんとしても集中を切らさないとか、常連の癖は全部覚えるとか、仲間意識を持ってつるまないとか、誰に対しても鬼になるとか、かっこよさなど考えず目先の金を拾うとか、つまりはそういうことだった。

そういう生活を何年かやればこんなもんかなって思う。もう途中からはあまり進歩していなかった。逆立ちしてもマネできない冴えを見せる雀ゴロが二人ほどいて、自分にそういう才能はないってことはよくわかった。

だからってそう簡単にやめられるもんじゃない。たまたま出来婚して、会社勤めを3年ほどしたことが冷却期間になった。

プロのプレイヤーって何だろう? そんな問題に自分なりの決着をつけ、麻雀に関してはプロのライターになろうと思い、その数年後に、今度は、文章の才能があるようには生んではくれなかったんだね、お母ちゃんって思うんだけど、まあそれはいーや。

これでも1年前まで点5雀士に落ち着いてたんですよ。ピンだと少し高いなって思うくらいまでレートは下がっていた。ぼくは仕事自体がかなりギャンブルだし、金のやりとりにさして熱意はなくなっていた。

それが、この1年ほど麻雀にハマり、だんだんレートも上がって、自分でも気づかないうちに打ち手意識が再燃してたようだ。

そういう意識はあった方が楽しいから、これはこれで悪いことじゃないとは思う。プロのプレイヤーにはならない。じゃあ現役じゃない。そんな感じで限定的に考えすぎてしまうのは、ぼくの悪い癖だ。もうちょっと気楽に考えていいんじゃないか?

そう思うけど、とまどいを感じちゃうね。なんでタイトル戦の優勝者にライバル心を持たなきゃいかんのだ? 何かと極端じゃないか?

たぶん他人から見たら不思議だろうと思う。ずっと麻雀の原稿は書いてるんですよ。それでも私生活では、麻雀にハマってたり、ハマってなかったりするんだよね。

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2006年7月15日 (土)

【教育】大学入試の終わり

数日前の朝日新聞朝刊の1面トップに、こんな記事が掲載された。

私立大、系列外の中学高校と連携 生徒先取り
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200607120008.html

これは1面トップになっただけあって、かなり衝撃的な記事だった。

今、私立大学が系列の小中高を作る動きが活発化している。たとえば、早稲田が附属小学校を作ったことなどがその例だ。これは、すでに訪れている大学全入を乗り切るため、早い段階から生徒を囲い込んでしまおうということだ。大学入試で多数の生徒を取るのは難しくなるから、中学や高校、場合によっては小学校から生徒を囲い込んでしまう戦略を、どの大学も取ろうとしている。それが現状だった。

しかし、それではもう間に合わないと見た中央大学が、系列の学校を作るのではなく、公立中学から附属高校へ無試験で推薦入学できるように提携するというのが、この日の記事なのである。

これが附属中学や高校だったらおかしくない。一度は試験を課せられている。しかし、その提携を公立中学と結ぶのだ。3年生がわずか15人しかいない中学から10人以上の推薦入学を認めるのだから、これは完全に無試験で中央大学高校から中央大学への進学を認めることになる。文京区の子だったら、中学は自由選択だから誰でもこの第三中学に入ることができ、そうすれば、ほぼそのまま中央大学に行けるのだ。

それをしたのが、いやしくもMARCH(明治・青山・立教・中央・法政)の一画を占める中央なのだ。事態の深刻さが伝わってくる。もうMARCHまで無試験の時代に入りつつある。

このニュースにより、他の大学の動きも活発化するだろう。中央が無試験になったのだ。それよりもランクが下の大学は無試験になるだろうし、それでも、魅力のない大学は中学や高校に提携してもらえないかもしれない。大学が生徒を選ぶ時代は完全に終わりを告げ、生徒が大学を選ぶ時代となった。これから生徒を選べるのは、国公立と早慶クラスだけになる。

似たような動きは、関西では以前から盛んになっていた。関関同立(関西・関学・同志社・立命館)が激しいM&Aを繰り広げており、系列の中高を増やし、系列外の中高とも提携を結んでいる。それだけではない。学部学科を増設し、キャンパスを移転拡張し、近隣大学を統廃合して、大規模化に向かっている。たとえば、聖和大が関西学院大に合併される。こういった大規模化競争は関東では起きていない。

学校もM&Aの時代に入り、これから弱い私立大学は次々と統廃合されてゆく。もちろん私立の中学や高校も同様だ。そんな時代が訪れている以上、じつは中学生や高校生の子どもを塾に通わせる必要など、もはやない。受験が必要となるのは一部の難関大学だけであり、それ以外の大学は、学校でそこそこの成績を取っていれば行けるようになる。

であるにも関わらず、小中学生の通塾率は下がっていないと思われるし、中学受験率はむしろ上がっている。これは、おそらく教育に対するビジョンを立てにくい時代だからだろう。そんな現状を見て、塾関係者はこれからも中学受験率は上がり続けると予想するが、ぼくは疑問だと思っている。

無試験でMARCHに入れる時代なのだ。それならば、早い段階からそれ以上の難関大学を目指そうとするよりも、出口(つまり就職)に備えるほうが有効だという戦略が登場してくるほうが自然に思える。そういう意識の転換がまだ起きていないのは、われわれ保護者の意識が現実に追いついていないからだ。大学入試が選抜として機能する時代は終わったのである。

資本主義的な競争の原理は、拡大の時代には適したシステムだった。基本的には良いものが拡大していった。しかし、縮小市場になると、こういった囲い込みと寡占化を招くことになる。もちろん、ここにも競争原理は働いている。だがそれは、ゆるやかな縮小というよりも消耗戦を感じさせる。このエネルギーが教育の質の向上に結びつけばよいのだが、残念ながら世の中とはそういうものではないようだ。

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2006年7月14日 (金)

【つぶ】見えない足元を見る

自分の本を読んでみる。あまり文章としてつながっていないことに気づく。

自分の癖というかよくあることなんだけど、知ってる情報が多いことについては、その情報をただつなげて書いてしまい、文章としてあまりつながってないことが多い。そういうのは読みにくい。

脳味噌が情報型なのかもしれない。自分にとっては当たり前すぎて意識しないようなことから書いていかないと、読みやすくはならない。

逆に、あまり知らなかったことを調べて書いた部分のほうが、ずっと読みやすかったりする。今回の本でいうなら足立区の話などがそうだ。自分でも読みやすいと思う。ろくに知識を持っていなかったことがプラスの結果になっている。

知ってる知識をバッサリ切るのって難しい。意志の力が必要だ。そこが自分の弱点になっている。こういうところから専門家病は始まる。今になって、あー、けっこう読みにくい本にしちゃったなーと思ったりする。

多少時間がたつと、自分の未熟さが見えてくる。何度もダメだしされるような立場ってなったことないもんな。われながら鍛えられてないよなーと思う。一気に読んでしまったという感想を何人かからもらっているから、そういうのはホッとするし嬉しい。でも、それに甘えてしまうようではダメだよね。無駄な歯ごたえはギリギリまで排除せねば。

大きな仕事をすると、自分の欠点がはっきりと出る。そんなときがスキルアップのチャンスなんだろう。多少は無理をしないと欠点も出ないから、そういう点でも今回の仕事はよかった。

次に長い本を書くときは、もっと上手く書けるはず。そうでなきゃ困る。つーか、そうであってくれ! 頼むぜ自分って感じだ。

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2006年7月13日 (木)

【つぶ】立ち止まっていた俺

半年ほど前、単行本にしたら売れそうなネタがあったので、出版社に持ち込んだ。

会社も編集者もどこの誰にするか迷ったが、結局選んだのはぼくが昔いた会社で同僚だった人。

彼は入社10年くらい。最初の3~4年はまるっきり無気力だったが、そこからいきなりやる気を出し、先輩たちをごぼう抜きに出世して、副部長になっている。

1~2年会っていなかったが、電話してみたら、なんと今年の8月から部長だという。副部長になってわずか1年で部長になっていた。

その会社では、こんな出世システムになっている。

平→主任→副編集長→編集長 → 副部長→部長→本部長

編集長までは現場の色彩が強く、副部長から管理職系になる(フツーの出版社では編集長から管理職系になると思う)。

彼より少し前に入った人たちが編集長になったとき、彼は主任になっていたかどうか。しかし他の人たちがそこで止まっている間に、彼ははるかに追い越して部長までなっていた。

持っていた企画書と原稿を見せ、気楽な仲なのでざっくばらんに話をする。そのネタは軍事系だったのだが、彼は中高時代に軍事オタクだったそうで、適切な突っ込みを入れてくる。そして「なんか上手い売り方ないかなー」と、いろいろ質問してくる。

すごくソフトな言い方だったが、その質問に対応してるうちに、ぼくはそのネタが超売れそうだと思った自分の見通しの甘さを感じ始めていた。

いま書籍というものは、5千部売れるくらいが普通だ。いや、それくらい売れてくれれば優等生とすら言える。

そんな状況下で、その会社は1万部売れない本は作らないというくらい高ビーな姿勢を取っており、それをほぼ実現している。まさに出版界の勝ち組だ。その1万部を売るための技術が存在していて、彼はそういったテクを磨くことで急速に出世したのだろう。

じつは、出版といっても中身によって相当違っている。編集者に求められる資質として、作品系(小説や漫画)と実用系(物語じゃないやつ)では正反対に近い。物語というのは情緒の世界だし、非物語は理性の世界になる。ぼくも彼も物語系の場にいたから、自分の資質と環境の折り合いが悪い点では一緒だった。

作品系の優秀な編集者は、数字とか売るテクとか、そういった発想にはまるで不向きだ。彼は作品系の優秀な編集者ではなかったことが幸いしてテクに精を出せたのだと思う。

彼と話していて、ぼくは自分がここ数年の間さぼっていたことを痛切に感じてしまった。そうか、こういう風に考えるんだ。ものすごく勉強になった。彼は切れ者だという雰囲気ではないので、部長になったと聞いてもなんとなく甘く考えていたのだが、編集長クラスとはまるで視点が違っていた。

ぼくはフリーランサーなので、かならずしもマクロな発想をする必要はない。5年くらい前、小さな会社を作るべきか(つまり編集プロダクションの社長になるべきか)というのが最大の悩みだったが、結局、そんなことやってらんねーぜという結論を出したのだった。

だが、そうであるならば、重松清みたいに末端のプロに徹するべきだ。社長のプロになるか末端のプロを貫くのでない限り、中途半端であり、今の仕事を続けていくことはできないだろう。

ぼくは30代前半はかなり頑張ってきたのだが、30代後半は明らかにさぼっていた。惰性だった。自分自身それをぼんやりと感じていたから、今の自分の仕事をイマイチ肯定しきれなかった。

そうか、俺は35歳から立ち止まっていたんだ。そんな現実を、半年ほど前、痛切に突きつけられてしまったのだった。

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2006年7月12日 (水)

【つぶ】「飲みに行く」って何?

数日前、ちょっと用事があって新宿に行き、そこで昔からの知り合いである麻雀プロに会った。10分くらい話をしたあと、彼は新宿二丁目に飲みに行くというので、わかれて帰ってきた。

そのときふと思ったんだけど、俺って飲みに行かないよな。

考えてみたら、行きつけの飲み屋って一軒もないし、顔を知ってるホステスって一人もいない。フーゾクも行かないから、自分に関係ある風俗営業って雀荘だけ。きわめて品行方正というか、カタブツというか。

人に誘われて飲みに行くことはあるんだけど、グループでの飲み会は3回に2回は断ってしまう。酒は飲めるし美味いと思うのだが、飲み会というものになぜか積極的になれないのですね。

10代のころ「飲みに行く」という言葉には、何か不思議な魔法がかけられている気がした。そこには大人社会の異次元空間が隠されている気配があった。でも、その秘密を解かないままいい歳になったし、この先もその秘密を明かすことはたぶんないんだろう。

そんなことを思いつつ、その日も帰りの電車で眠って元気になったから、やはり雀荘に行ってしまったのだった。この世に雀荘ってもんがあってよかったよ。

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2006年7月11日 (火)

【つぶ】世代の作家

25歳くらいのころ、ある日の夜中から早朝にかけて、バイト先の雀荘で夜番をしていた。

その日はフリーの客が4人で打っているだけ。暇だった。 暇なときは、たいてい誰かの後ろから麻雀を見ているもんだったけど、その日は空いてる席で本を読んでいた。

『僕の昭和史』Ⅰ~Ⅲ(安岡章太郎)という本。 この著者に興味があったかといったら、まったくなかった。彼の小説は一冊も読んだことなかった。ただ、こういう一代記みたいなものが比較的好きで、文庫本だというだけの理由だった。

そこに、早朝4時か5時ころ、お客さんが来た。 近くの出版社で取締役をしている人だった。

彼はぼくの読んでる本を見て言った。

「なーんだお前、いまごろ章太郎なんか読んで!」

馬鹿にするような調子で、同時にものすごくうれしそうだった。 そのとき、安岡章太郎を「章太郎」と名前だけで呼ぶらしいと初めて知った。

安岡章太郎は、文学史的には「第三の新人」と呼ばれるグループだ。 安岡章太郎、吉行淳之介、小島信夫、庄野潤三、遠藤周作、近藤啓太郎、阿川弘之、三浦朱門などを指す。

ぼくはこのグループの人たちに興味を持ったことはなくて、遠藤周作を2~3冊、吉行淳之介を1冊しか読んだことがなかった。しかも、吉行淳之介の1冊は『麻雀好日』というエッセイだった。

どんな小説家の本を読んでるか、そこには世代が歴然と出る。 ぼくの頃だったら村上春樹や村上龍だった。 安岡章太郎はこの取締役にとってはかなり身近な存在なんだろう。

ぼくはこの『僕の昭和史』をかろうじて3冊とも最後まで読んだけど、まあ読めたというくらいで、彼の小説も読んでみようと思うほどではなかった。やはり、ぼくの世代の作家じゃないと感じていた。

しかし、この取締役が喜んでくれたことで、ぼくは親孝行したような気分になり、ちょっとホッとした。 それまで、負けてる日は取り戻すため、この人に強引にサシウマを挑んだりして、さんざっぱら迷惑をかけてたから。

店員が客に無理やりサシウマを挑む、ひどい雀荘だった。

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2006年7月10日 (月)

【麻雀】雀荘に堕ちてくる人

Aさんは中華屋の店長だった。 真面目で誰にでもやさしかった。 ちょっと人間関係が不器用な感じの人だった。

かなりいい給料をもらってたらしい。 だが、オーナーと喧嘩して首になってしまった。 同時に、かみさんとは離婚する羽目になった。 かみさんの親に家まで建ててやったというのに。

調理師として働く道はあったと思うけど、彼はしばらくピン雀でメンバーをやるという。 みんなが止めた。生活に金が必要な人はやめた方がいいと。 でも麻雀好きのAさんはやりたかったらしい。

Aさんの腕は普通だった。客としての普通。 歳は40代後半くらい。 うまくいくはずがない。

そのころ、ぼくは普通に働いてて、Aさんのことは噂として聞いていた。

ある日、ぼくが店に行くと卓が立ち、Aさんが上家に入った。 その回は南入してからAさんが断トツ。

南場3局、親のぼくがドラの發をポンしてテンパイ。 待ちは五八万。 4巡目という早いテンパイだった。

すぐに上家のAさんは通っている牌だけ切り始める。 ここらへんのフォームはできている。 でも、逆にそれが隙になるのだった。

2巡後に下家が八万を切った。 ぼくは見逃した。

次巡、Aさんは場を見回して八万切り。 「ロン」 デバサイだ。

「……はい」
呆然としたAさんがそう答えるまで長かった。

「福っちゃん、あんた鬼かよ~! Aちゃんは久しぶりのトップなんだからさ~、もう頼むよ~」

その店の店長にそういわれたけど、卓上に人情を持ち込むなんて考えたこともなかった。 こうして親マンのデバサイで、Aさん待望のトップをまくってしまった。

合わせ打ちは同巡という知識と、それをちゃんとできることってまったくの別物なんだよね。 痛みとトレーニングなくして知識は身につかない。 大事なのは卓上で瞬間的に再現できるものだけ。 そして今、トレーニング不足により、今度はぼくが逆の立場になっている。

しばらくしてAさんはその店のメンバーを辞めた。 行方は知らない。 今はどうしているんだろう。

金を賭けるって結局はこういうことなのかもしれないね。

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2006年7月 9日 (日)

【つぶ】中学生のエロ自慢

娘1号は中3。その年頃はHな知識を持ってる方が偉いらしい。

娘1号はイマイチおくてで、ボーイズラブなどのオタク系も中途半端。そもそもメディア全般に疎い。なので、あまり会話に加われない。

だが、そんな1号にも最後の切り札があったのだ。

ぼくは以前「まんツボ」という麻雀マンガの原作を書いてた。麻雀のハウツー+エロというイージーな漫画だ。掲載誌は送られてくるから、娘1号はそれを小学校低学年から読んでいた。

かみさんは嫌がったが、家業を目にして何が悪いか!(ホントは手伝わせたいくらいだ)という信念のもと、自由に読ませていた。たぶん日本一麻雀漫画を読んでる小学生だったと思う。

そこで今、話についてけなくても最後に言える。

「あたし、そーゆーの小3から読んでたから」

「えー、すごーい!」

そんな切り札としてその体験が活躍してるらしい。役立ってよかった!

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2006年7月 8日 (土)

【つぶ】自虐という回路

西原理恵子さんという漫画家がいる。彼女の漫画は面白いと思うし、ぼくもよく読んでいる。

彼女の出世作は「まあじゃんほうろうき」。麻雀を打ってとことん負ける話だ。その負けっぷりがあまりにすさまじく描かれているので、これを読んだ人は、彼女は麻雀が下手なんだと思うはず。だが、そう思ってしまうのは彼女の自虐ワールドに入り込んでいるからで、じつは彼女は麻雀が相当に強い。

ぼくは彼女の麻雀を観戦したことが何度もあって、直接びっちり打ったことも2度ほどある。そのときの印象は「意外!」だった。あれほど麻雀プロたちと打っているのだから下手なはずないんだけど、それにしてもここまで強いとは思わなかった。目先に流されず、押し引きがものすごくきっちりしている。たぶん、ぼくは負け越していると思う。

「まあじゃんほうろうき」に、どこかの学園祭に行って、貧乏学生がサシウマを挑んできたから返り討ちにしてやったという話がある。彼女と打って負けたとき、なるほど、こりゃ学生たちも負けるだろーよと思ったもんだ。

ここで思うのは、自虐というレンズの屈折率だ。彼女の漫画は事実は曲げられていないけれども屈折率がすさまじい。その後の「恨みしゅらん」や「鳥頭紀行」などでは、その矛先が突っ込みに向かうのだが、こと麻雀系に関しては負け馬鹿日誌になっている。

そう、彼女に限らず、麻雀の体験記って、漫画であれ文章であれ、面白いものは必ず負けた話であって勝った話ではない。麻雀の体験エッセイは、自虐にならざるを得ないのだ。一流の体験エッセイは自虐的であり、だからこそエンターテインメントになって読者を引きつけるし、その一方で良識ある人たちには肌に合わないものとなる。そんな法則が成立している。

なぜ勝った話は自慢話にしかならないのか。なぜ強いものが正しく勝った話はエンターテインメントにならないのか。そんなことを思うようになって何年も経つのだが、いまだにその答えを見つけられない。そして誰の麻雀エッセイを読んでも、面白いものは自虐という文法に従っているのだ。

なぜ自虐でなければならないのか、その謎はいまだ解けない。少なくとも腑に落ちない。

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2006年7月 7日 (金)

【つぶ】専門誌

たまたま本屋の教育コーナーで『教育の私事化と公教育の解体』という本を見つけた。公教育の変質についてストレートに論じている画期的な本。『教育格差絶望社会』を書く前に知ってたらと思いながら、3200円もしたけど買った。

この本は教育開発研究所という出版社らしからぬ名前の会社が出している。中に出版物の案内が挟まれており、そこには『月刊 教職研修』という雑誌が紹介されていた。

これは「教育管理職の総合研修誌」だそうで、「主任、教頭、校長になったら、まず本誌をご購読ください!」だそうだ。

『月刊 食堂』とか『月刊 むし』とか『隔月刊 風の旅人』とか、いろんな雑誌があることは知ってるけど、いやはや『月刊 教職研修』とは、世の中も出版の世界も本当に広い!

そういえば、10年以上も前だけど、パチンコ店の経営者向け専門誌の求人を見て、それを作ってる会社を見に行ったことがあった。その雑誌を見せてもらったら、まったく理解できないカタカナ経営用語のオンパレード。まるで外国語のようだった。世の中って広い!

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2006年7月 6日 (木)

【麻雀】一緒にするなー!

出版業界の先輩から何度か聞かされた話。

「もう昔の話なんだけど、本の印税が何十万か出てさー、それ持ってでかい三麻しに行ったら、全部負けちゃったんだよ。もうすぐ正月だったんだけど、家に食うモンが何もなくてさー」

この話にはもうひとつバージョンがある。

「次の日は娘の運動会だったんだけど、弁当に入れるもんを買う金なくてさー」

どっちのバージョンが本当なのかわからない。この人は60歳くらいで、物忘れはまったくない。なのに両方3回くらいずつ聞いてるから、どっちも本当なのかもしれない。

そして、どっちの話もこう締めくくられるのだった。

「こーゆーことってあるじゃないか」or「君もこーゆーことあるだろ?」

その場では適当にお茶を濁してるぼくなのだが、ここではっきり言っておきたい。

一緒にするな~!! 食うもんがなくなったことなんてねーよ!

あるのはボーナスが一瞬でなくなったことだけさ( ̄w ̄)プッ

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2006年7月 5日 (水)

【つぶ】結婚の真実は?

結婚1~2年目のころ、ボーナスを一瞬で失った。 種目はチンチロと大小だった(麻雀ならそんなに動かない)。

ぼくがかみさんにカミングアウトして(さすがに1週間ほどいえなかった)、かみさんからぼくの両親に伝わった。すると翌日、ぼくの留守中に父ちゃんがすっ飛んできて、10万置いてこういったらしい。

「どうか長い目でみてやってほしい」

ぼくがかみさんに見捨てられることを恐れたよーだ。

いやはや親ちゅーのはありがたいもんだが、結婚に対するぼくと親の認識はものすごーく違っていたのだった。

ぼく「泣いて結婚してくれっつーんだから、んなら結婚してやるか」

両親「ついにうちの馬鹿息子を引き取ってくれる奇特な娘さんが!」

どちらが真実に近かったのか? この問題を追及するのは止めとこう( ̄w ̄)プッ

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2006年7月 4日 (火)

【つぶ】イマドキ中学生の遠距離恋愛

娘1号(中3)が携帯メールを何度もやり取りしている。誰からか聞いてみたら、オンラインゲームの友だち(♀)で、恋愛相談されてるという。

その子(♀)が付き合ってる相手も同じネットゲームをやってる子(♂)。共通の知り合いだから娘1号に相談するんだと。

(;゚д゚) 「その二人は会ったことあるの?」

娘1号「これから初めて会うんだって」

(;゚д゚) 「なんじゃそりゃ! どことどこなの?」

娘1号「愛知と山口かな」

(;゚д゚) 「遠いじゃん! いくつ?」

娘1号「両方とも高1だって」

(;゚д゚) 「ゲームってチャットしながら戦うだけだろ。どーやって付き合うよーになるんだよ?」

娘1号「メールとか電話とかさ」

(;゚д゚) 「んで、何を相談されてるの?」

娘1号「♂はね、猫かぶってた♀が好きなんだって。素を出したら前の方がいーと言われたんだって」

(;゚д゚) 「そーゆーオタク男は振ったれ!」

娘1号「でも、あまりキツイこと書けないしなー」

(;゚д゚) 「そーゆー恋愛相談ってよくされてるの?」

娘1号「この♂の方からもされそうなんだ~」

恋愛とは無縁の娘1号に、なぜか恋愛相談が舞い込んでくるそーな。

それにしてもさ、会ったことないけど付き合ってるって何なんでしょ。いや、感覚としては理解できるんだけどさ、でも不思議な現象であることは確かだよね。そもそも付き合うって何なのかもはっきりしないし。

そーいえば、ぼくのネット上のダチにもそーゆー人がいる。40代主婦で、10歳くらい年下のネット彼氏がいて、会ったことないし、会う気もない。でも彼氏なんだって。かわゆい!

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2006年7月 3日 (月)

【麻雀】詩人の魂

1年ほど前に作った麻雀博物館の本に、老学者がいっぱい文章を書いている。

この人、見た目は偏屈な老人って感じ。しゃべってみてもとっつきにくく、なおさら偏屈な感じがする。とにかく反応がにぶくて、コミュ二ケーションがままならない。でも、接してみると相当ナイーブなんだよね。

彼はけっこう怒るんだけど、いったんその文句に耳を傾ければ、それ以降は、まあ終ったことはしょうがないよ、もういいさ、という雰囲気になる。かなりやさしい。でも、最初に怒ったときの印象が積み重なって、偏屈な感じを与える。とにかく不器用な人であることは間違いない。

麻雀の専門家といっても、本当に詳しい分野はさらに狭くなるから、彼の知識の深さに触れるのって難しい。日本の昭和初期のこと、日本の書籍のこと、このふたつに関しては、日本で一番詳しいんじゃないかと思う。得意分野がバッティングする人がもう一人いるから、どっちが一番かはぼくには判別できない。

会話がそういった方向に向かい、こちらがある程度以上の予備知識を持っていた場合だけ、彼の魂に少しだけ触れることができる。ぼくは予備知識がまだ足りないから、その分野の話をしたことは数えるほどしかない。

彼の書く文章には詩人の魂のようなものがある。でも同じように思っている人ってどれくらいいるんだろう。彼は心を直接語ることはなくて、モノを語るから、詩人の魂といっても、その魂は知識の向こう側にある。99%に人にとっては、単なる退屈な文章なんじゃないかと思う。それが99%なのか、99.99%なのか、そこらへんはわからない。

1年前の今頃、早朝4時に彼から原稿がファックスされてきた。朝7時が締め切りということになっていた。もちろんコンピュータ時代の人じゃないから原稿はみな手書き(携帯も持ってないし)。ぼくがすぐそれを打ち込んで、2時間後にファックス。その修正が来て、またファックス。戻ってきて終了。デザイナーにメールした。

彼は自分の原稿を何度となく直す。デザイナーにすごく嫌がられている。そりゃそうだわ。普通は嫌がると思う。ぼくも同じように何度となく直す人間だから、寛容になれるのかもしれない。

今朝きた原稿は素晴らしかった。そのとき、ぼくも同じ本の原稿を書いていたのだが、まったく比較にならない。

ぼくは、彼ともう一人の専門家のフィールドからもれるものだけ自分で書いてるから、そもそもの条件が違うんだけど、それにしても…とホント思った。でも(何度も同じこと書くんだけど)、この文章をすばらしいと思う人ってどれくらいいるんだろう? 西原理恵子さんの漫画が面白くて…って方が、絶対フツーの感性だと思う。

ぼくは、つぎつぎとベストセラーを書くようになるよりも、彼のような老人になりたいと思ってしまう。そこに今やってる仕事との矛盾がある。そういう対立的な考え方をしてていいことなんてないんだけど、どうすれば統合する方向が見えるのか、そこらへんはずっとわからない。

ほんとねえ、彼の文章を好きだという人が(万一!)いたら、ご一報ください。麻雀博物館副館長の鈴木知志さん(69歳)って人なんですけどね。

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2006年7月 2日 (日)

【教育】自閉症

下の娘は小6。昨日まで小学校の移動教室に行っていた。

出発日の朝、いつものごとくごねて行かないという。自閉症でわがまま天使のため、本人の気が向かわないとどうにもならない。

集合は学校で、7時30分にバスは出発。行き先は八ヶ岳。迫ってくる時間。こりゃ、だめだなーと思って見ていると、学校から電話がかかってきた。そしてかみさんと相談したあと、担任の先生があとから電車で連れて行ってくれるという。

これにはびっくりした。そんな遠い場所まで、一人だけ電車で連れて行ってもらえるとは。学校によるそこまでのサービスって聞いたことがない。

特殊学級は全部で10人ほど。そのうち6年生は2人で、林間学校への参加はうちだけ。ということで、M先生は、この林間学校に関しては、うちの子の面倒だけ見ればいい立場なのだろう。

9時頃、うちの子の様子を伺ってからM先生が来宅し、八ヶ岳に向けて出発。2泊して昨日帰ってきた。もらった記録によると、相変わらずゴチャゴチャ面倒をかけたようだが、面白く遊んだようでもあった。

学校では、この厳しいM先生によってビッチリしつけられ、面倒を見てもらっている。そのあとの学童保育では、また一人S先生がついて、こちらもビッチリ面倒を見てもらっている。なんという恵まれた福祉環境なのだろう。

いま少子化で、都内23区では学年1クラスなどの小学校が増えている(地域による)。そのことによる恩恵を我が家はものすごく受けている。払っている税金と受けているサービスは比較にならない。

もっとも、単純に少子化のためというわけではなく、運も大きい。ぼくの甥(姉の子)も自閉なのだが、徳島県に住んでいる。彼も小学校の特殊学級で、その年だけたまたまマンツーマン状況になった。ビッチリ面倒を見てもらって、小学校の途中から普通学級に移った。そのまま高校まで進み、いま私立大学の1年になっている。

みんなを感動させたのは、大学よりも高校に入ったときだった。まさか、あの子が高校まで進める日が来るなんて…。その知らせを聞いたとき、親戚一同は言葉にならない思いを噛みしめたのだった。ぼく自身、近年あれほど感動したニュースは他になかった。本人は相変わらず、宇宙人というあだ名通り、しゃーしゃーとしてるけど。

自閉症とはどういうものなのか、まだはっきりとはしていない。遺伝は関係なく、おそらく環境も関係なく、先天的な脳の一部の機能障害らしい。対人コミュニケーションが苦手で、言葉の発達が遅れる。この20年あまりで、遺伝も環境も関係ないらしいとわかってきて、親の育て方が(あるいは畑が)悪いという差別から解放された。

少し前にドラマ化された『光とともに』という自閉症児を扱った漫画がある。ドラマも観たし原作も読んだのだが、うちの子の方がちょっと楽かなと思う。それでも、とにかく手がかかることは確かで、普通の子の3倍は大変だろう。小4まで小学校への送り迎えをするだけでも相当大変だった。朝なかなか行かないしね。

そんな環境にあって、子どもの世話もろくろくせず、麻雀をやり狂っては、その挙句にやりたいことを仕事にして、それでいてギリギリまでやりたくねーなどと言っている自分ほど、わがまま者もいないかもしれないが、こればかりはどうしようもない。

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2006年7月 1日 (土)

【教育】とある教育格差

娘1号の学校から、こんな副教材を買えというプリントが来た。3000円級の辞書を、英和、和英、古語、漢和と4冊も買えという。私立中学では、中3から高校の内容に入るから、高校の勉強の態勢を作らせるのだ。

自分で揃えてもいいし、学校での即売会で買ってもいいという。辞書などは古本屋で買った方が安いに決まっているから、娘には買わなくていいと指示。ホントは実物を見ないとわからないけど、そこまで時間を使ってられないので、アマゾンで検討する。

辞書というものは、どんどん進歩している。項目の立て方とか、使いやすさとか、相当違ってきている。そもそも「検索」というのは先端分野だ。だから古すぎるものはよくない。いくら全面改訂などといっても、発想の根本が古かったりする。また、どんな辞書だって初版はミスだらけ。最低1回は改訂してないと駄目。そして、ろくに辞書を出してない会社のものは、社内の蓄積がないから避けた方がいい。

また、中高生が学習用に使うものは、大人が調べるための辞書とは違う。どうせガキンチョだから、内容がちゃんとしていることよりも、目先の役立ち度、使いやすさ、面白さを優先した方がいい。具体的には、文法的な説明の充実と項目立ての見やすさだ。一生モンみたいな発想ではなく、2~3年の消耗品と考えるべき。

古本には数百円のものもあるけど、これは改訂版が出たから前の版が暴落したもの。いくら安いといっても、大きな改訂前の版は避けておく。

というわけで、英和、和英、古語の3つは決定。和英はぼくの勝手な判断で学校推薦に含まれていないやつにした。送料はかかるけど、これで6割引くらいになった。
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ただ、漢和辞典だけは選ぶ基準がわからない。そこで、詳しそうな人に電話して聞いてみた。すると、学校から推薦された2つのうち、一方の編者は大学で派閥闘争ばっかしてたから気に食わねぇ、もう一方の新しい方にしときなよと、ありがたいアドバイスをいただく。これで決定。
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これは定価になっちまった。高いなぁ。

辞書選びも馬鹿にならない。ぼくは高校に入るときにうっかり買った和英辞典を、使いにくいと思いながらいまだに使っている。25年前の失敗を引きずっている。必要なのは娘の辞書より自分の辞書だ。時代は電子辞書だが、それこそぼくが欲しい。

ささやかな例だが、これも小さな教育格差だ。ぼくが出版業界の人間であったため、辞書の違いなどに興味があった。そういったことも含めて家庭環境は形成される。

親の職業別に見たときに、サラリーマン階層は教育熱心で、自営業者はそうでもない。ただし自由業者は教育熱心だという。そんな話を聞いたとき、自分に対する説明を見つけた気分になったもんだ。

だが、じつはこの選択には、わが家のレベルが表れている。本当は、最新式の電子辞書を買うのが一番なのだ。

中高生の勉強に関しては、紙の辞書派と電子辞書派がいて、今のところ教員や教育熱心な親の間では、どちらが上なのか結論は出ていない。紙の辞書は多少使いにくいとはいえ、周囲の単語なども見るため、学習の役に立つというのが紙派の論拠だ。だが、これはおそらくアナログ派のノスタルジーにすぎない。大人になって電子辞書を使い始めると、みんな電子辞書しか使わなくなってしまう。ということは、やはり電子辞書のほうが上なのだ。アナログ派が思う以上に、時間効率は重要な要素だ。

そうは思うものの、高いし、壊しそうだという理由で、今回は買わなかった。そもそも、ぼく自身がまだ電子辞書を使ったことがない。こういった点に親の経済力と情報力が表れる。つまり、それがぼくの限界だ。やはり、さっさと電子化すべきなのか?

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