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2006年6月11日 (日)

【本】『瀬川晶司はなぜプロ棋士になれたのか』

『瀬川晶司はなぜプロ棋士になれたのか』って本を読んだ。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309268897/

ごぞんじ、サラリーマンから将棋プロになった人の話。

この本は、彼がいかに夢をかなえたかがテーマであるように思える。しかし、さにあらず。じつは、主役は瀬川さん本人ではなく、いかに将棋界という古い体質の世界が、構造改革に向かったかという話なのだ。

将棋連盟の収入は落ち続けており、ついに赤字に突入。ファンも減り続けている。将棋プロは自分の勝ち負けにしか興味ない人が大半で、団体の運営などには関心がない。しかし現状のままいくと、近い将来、自分たちは食えなくなってしまうのではないかという危機感が育ちつつあった。

そんな折に、瀬川さんという卓越したアマチュアがプロになれるかという社会的なムーブメントが起きた。そのとき、将棋連盟の会長選挙があって、保守的な中原会長から、革新的な米永会長に代わった。派手好きな米永会長は、瀬川さん事件を利用して、彼が受けるプロテストをイベント化し、マスコミの目を引き、将棋界の将来につなげようとする。

そんな話だ。

この本は、プロ将棋界の仕組みについて、ものすごくよく描き出している。たとえば、瀬川さんのプロテスト第4局は中井広恵さんが相手だったが、この勝負には、瀬川さんのプロ入りと女流棋界の待遇改善が二者択一で賭かっていたことが示されている。中井さんは一手のミスで敗れ、女流棋界の待遇改善は連盟総会の議題に上らなくなってしまった。

将棋のプロは厳しい勝負の世界に生きているが、彼らが将棋に没頭するためには、その生活を保証する仕組みが必要になる。その仕組みが世の中の常識と合わなくなってきており、構造改革が必要になっている。プロより強い人がなぜプロになれないのか。その疑問に対する将棋界の答えは、世間を納得させられなくなってきているのだ。

将棋界の財政面まで踏み込んだ記述では、これほどの本は読んだことがない。瀬川さん関係の本は、本人の自著も含めて5冊出ている中で、この本が一番売れているのもよくわかる。名前を知らない著者だが、感心してしまった。よくここまで聞き取り取材できたもんだ。

その一方で、なぜか読後感は盛り上がらない。なぜだろう。何かが足りない。そんなふうに感じてしまう。

将棋ノンフィクションには『真剣師小池重明』という傑作があって、これはもう本当にただ事じゃなく面白い。そういう傑作と比べることに問題があるといえばあるのだが、何かが足りないのだ。それは何だろう。しばらく考えてしまった。

まだ結論は出し切れないのだが、何点か。

この本には悪人が一人も出てこない。守旧派にも彼らの事情があることが丁寧に描き出されている。まだみんな生きてる人だしね。だが、それが手ぬるいのではないか。

著者の意見や立場がわからない。本文中には主観が交えられず、レンズに徹している。それでいて前書きも後書きもないから、著者の意見も立場もわからない。新聞記者のようなスタンスとはまた違って、個人の内面まで踏み込んでいる。それでいて、著者本人の考えは明かされないのだ。将棋界とは関係なさそうな著者が、どうしてこれだけのものを書けたのか、その事情もわからない。

人間が主人公ではない。読み手によっては、これが最大の問題だろう。ただし、ぼくにとっては、個人のことよりもそっちの方が興味あるので、これが根本ではないと思う。

結局、著者の書き方がまだ甘く、関係者の内面まで踏み込みながらも、その奥にあるドロドロした部分まで至っていない。これが物足りなさを感じさせるのではないか。じつは、一番単純なこの理由こそが有力なのではないかと思っている。著者はまだ30代だから情緒力が弱いのだろう。

とにかく最速で作ったのだろう。前書きや後書きがないのは、そんな理由じゃないか。類書とのスピード競争になるからね。そこらへんの事情は理解できる。それでも、すごくよく書けているのに、何か重要なスパイスが抜け落ちている、そんなことを巡って考えてしまうのだった。

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