【つぶ】名文とは何か?
ライターとして文章を書くようになってから、名文とはどういうものかいつも知りたいと思っていた。
ライターを始めてから何年もの間、ぼくの文章はカタイとよくいわれた。それもそのはずで、そもそも、ライターの書く、明るく楽しげで軽いギャグもありサーっと読める文章には、それまで興味を持ったことがなかった。
明るく楽しげなものは漫画に求めていたので、それは文章に必要な要素ではなく、逆に中身が薄くなるとしか思えなかった。道に落ちてたら拾って読んでもいい、ぼくにとって軽くて薄い文章はそれくらいの存在でしかなかった。
出版社の編集というのは、オールラウンドなプロではない。 漫画を売りとする会社は漫画に関してはプロだし、ビジュアル(写真集とかエロ本とか)を売りにする会社はビジュアルに関するプロ、文章を売りにする会社は文章のプロ、裏ネタを売りにする会社は裏情報のプロである。
それぞれ専門以外の部分では、最低レベルの技術的知識は持っていても、あとは個人個人が適当に工夫しているくらい。 会社全体で自然と高められていくのは専門部分だけになる。
ぼくが原稿を書いていたのはほぼ漫画誌だったから、その編集部は漫画のプロではあったが、文章のプロではなかった。
「カタイ、カタイ、かたすぎるよ。もっとやわらかい文章にしてよ」
よくこんなことをいわれたが、これはまあ半分くらいは理解できた。 それ以上に問題だったのは、やわらかさ以外の部分についてだった。
ぼくは文章を発注されたとき、どんな文章がいいと思うかいつも編集者に聞いていた。それを繰り返すうち、みんな自分が好きな文章を語っているだけだということがわかってきた。スポーツ新聞を愛読している人は「打った、走った、勝った」みたいなシンプルな文章を評価した。 「週刊プロレス」を愛読している人は、多少はったり臭い大袈裟な文章を好んだ。 人間ドラマのような読み物を愛読している人は、とにかく読みごたえを重視した。 ゲームオタク編集者は「百里の道は九十九里をもって半ばとす」のようなキャッチコピー臭いフレーズが入るといいと言った。
それって、君が好きな文章をただ言ってるだけじゃん!
そんなことをいったりしなかったけど、彼らの中に答えはないということはよくわかった。いわんや、ぼくがライターとして、どうやって文章を書いていけばいいかというビジョンなど求められるはずもなかった。文章いかにあるべきかということを語りたがる業界人の先輩もいたけれども、単に自分の好みを語るだけの精神論にすぎなかった。
逆に、編集者にはミスリードされることの方が多かった。きちんと仕事するといえば、マジメな人はたいていいい顔をするものだが、きちんと書かれた文章が面白いかといえば、どちらかといえば逆だ。
つまり、これが編集部のレベルであって、また別の編集部に行ったら、そっちはそっちで専門以外の部分ではとんちんかんなことをしているもんだ。 バランスが取れた能力を持っているのは総合雑誌の編集部くらいで、しかしそれが本当にオールラウンドなのかといったら、そんなことはないと思う。
ただ一人、編集者で、ビジョンを持っている人もいた。 彼は文章の細かい部分まで際限なく口を出すので、最初はノイローゼになりそうだった。だが、それに耐えているうちに、その一貫性が飲み込めてきた。 要するに、面白きゃ何でもいいってことなんだな。 様々な表現について具体的に口出しされているうちに、彼の抱く「面白さ」の概念が見えてきた。
だが、彼の存在で問題が解決したかといえば、もちろんそんなことはない。現実問題としては、業界内で高い評価を受けているライターをマネするのが手っ取り早かった。何人かの手法を、パッチワークのように継ぎ合わせるのが当時のぼくのライター術だった。 だが、それでいいとは思っていなかった。やはり納得のいく解答がほしかった。どこにも方法論が見えなかった。
いまいる場所の地図がない以上は、方位磁石が必要になる。 どういう文章が求められているかがわからない以上は、理想的な名文とはどういうものか、その名文といま書くべき文章とはどんな位置関係なのか、そんな方向にぼくの意識は向かっていくのだった。 名文とはどういうものか、そんなテーマはずっと自分の中にあったのだ。
(続く…かも)
| 固定リンク
コメント